その翌日、一人の痩せた少年がおずおずと診療所にやってきた。バンコップ家の息子エミールだった。「やあ!」とカールが声をかけると、彼も元気よく「やあ!」と言ったが、途端に激しく咳き込み、背をなでてやるとようやく治まった。
カールは彼を診察したが、見る見るうちに顔が曇った。もはや手の施しようもないほど健康が損なわれていることが分かったからである。その間にケーテは、シロップに咳止めの薬を溶かし込んで、彼に飲ませた。
少し落ち着くと、少年はコルヴィッツ夫妻に笑いかけた。「あのさ、うち大変なんだ。お父さんがお酒飲んで暴れて、よくお母さんのこと殴るの。パンを買うお金もなくてさ。お母さんが内職しても足りないから――で、ぼく工場で働くことにしたんだ」
それから、大切な秘密を打ち明けるようにこっそり言うのだった。「今度お金もらったら、お母さんにショール買ってあげたいの。お母さん夜なべするから体がとっても冷えてね」。「きみは偉い少年だ。でもね、子どもはしっかり栄養をとって毎日元気よく過ごさなくちゃいけないんだ。そうさせてあげる義務が大人にはあるんだよ」。カールが言うと、エミールはまたにっこり笑った。そして、帰っていった。
その翌日。コルヴィッツ夫妻は、バンコップ家を訪ねた。軒が傾いた家に近づくと、中からわめき声とともに物が壊れる音がした。続いてバシッ!と殴りつける音も聞こえた。2人はドアがなくなった入り口から中に入った。バンコップ夫人は額から流れる血を拭きながら慌てて2人を出迎えた。
「先生、この人気が狂っちまいました。私とエミール、この人に殺されます」。「そうやって、いつもおれだけを悪者にしやがって!」バンコップはまたしても夫人に向かっていったので、カールは抱き止めた。すると彼は、ペタンと床に座って泣き始めた。「おれは死にたいよ、先生」。「いつもそう言うけど、あんた死ぬ勇気もないじゃない!」夫人は毒づいた。
バンコップはよろよろとベッドにひっくり返ると、眠ってしまった。「あの、エミール君のことですけどね」。カールはバンコップ夫人に言った。「肺がすっかりやられています。お宅の生活費をわずかなりとも援助させていただきますから、あの子の工場勤めを辞めさせてもらえないでしょうか。もうこれ以上働かせるのは無理です」
「知ってますよ、そんなこと」。彼女は、叩きつけるように言った。「もう前からあの子の体が悪いこと知ってました。だから、あたしは内職をして、昼も夜も働いているんです。それに、辞めなさいって言っても、あの子聞きやしません」。2人は携えてきたわずかな金を彼女の手に押し付けて家を出た。
日がたつにつれて、ケーテは労働者の家庭の悲惨さが分かってきた。夫が病気をするか職を失うかすれば、そのしわ寄せがただちに妻と子どもに及ぶ。妻は子どもを養うために夫の暴力に耐え、自らの健康を犠牲にして働くうちに命を縮めていくのだ。
その日の午後。ケーテは市場に買い物に行き、パンを一斤買った。――とその時、すぐ近くの家から顔を厚いショールで覆った女が出てきた。するとその後から、3、4歳くらいの女の子が2人追いすがり、そのスカートにまつわりついて「パンちょうだい!」とせがんだ。「パンをよう、お母ちゃん!」
しかし、女は子どもを突き退けるようにして歩み去った。その痩せた顔を涙が一筋伝うのが見えた。
「パンがほしいの?」ケーテはそう言うと、籠の中からパン一斤を出して子どもにやってしまった。「お母さん、働いているの?」その尋ねると、2人はうなずき、もらったパンを抱えて家に入っていった。
家に帰ってカールにこの話をすると、その人はゲンナーという人の未亡人だという。彼は腕利きの靴職人だったが、工場で靴が大量に作られるようになってから失業し、その結果精神を病んでカミソリ自殺をした。それで妻は酒場で働きながら、2人の子どもを養っているということだった。ここにも、追い詰められた労働者の姿があった。
その夜ケーテは、母親のスカートに泣きながらまつわりつく2人の子どもの姿をスケッチし、これに「パン」という題を付けた。
*
<あとがき>
バンコップ家の人たちは、悲惨な生活を送る当時の労働者たちの姿をそのまま映し出しているかのようです。失業し、生活苦にさいなまれる労働者はやりきれない思いから妻や子どもに暴力を振るい、妻は子どもたちを養うために夫の暴力に耐え、自らの命を犠牲にして働くうちに、命を縮めていくのでした。
バンコップ家のエミール少年は、けなげにもそんな両親の苦しみを理解し、まだ遊びたい年頃なのに朝早くから深夜まで工場で働くうちに、肺を患うようになりました。コルヴィッツ夫妻は、この家族をどうやって救済したらいいか分からず、途方に暮れるのでした。
そんなある日。ケーテは街角で、追いすがる幼い子どもたちを振り切るようにして、夜の繁華街に出ていく女性を見ます。彼女は、パンを求めて泣いている子どもの姿をキャンバスに留め、「パン」と名を付けました。この作品は後になって、世界中の人々から高い評価を受けることになったのでした。
栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。