1891年、24歳になったケーテは、医師カール・コルヴィッツと結婚し、労働者街に移り住んだ。このあたりには教会がなかったので、ギュストロフの町で牧会をしているシュヴァルツコップのもとを訪れ、彼に挙式をしてもらうことにした。
この人はカールと古い知り合いで、医者になるつもりだったが、郷里で急逝した父親のあとを継いで牧師となったのだった。そしてくしくも、彼もまたユリウス・ルップと同じ「自由宗教派」に属していたのである。
懐が広く、温かな人格者である彼は町の多くの人々から慕われており、貧しい家庭の子どもたちを集めて開いていた「日曜学校」は大評判だった。シュヴァルツコップ牧師は2人の結婚をことのほか喜び、彼らをめあわせ、祝福してくれたのだった。
彼らが新居となった労働者街の診療所に帰り着くと、まだ着替えもしないうちに、激しく扉をたたく者があった。「先生、開けてくださいまし!」カールが扉を開けると、中年の女性が倒れ込むように入ってきた。「ああ、先生! 私、主人に殺されます」。彼女は目の下に黒いくまを作り、歯ぐきからは血が流れ出ていた。それはバンコップというべっこう職人の妻だった。
「どうしました?」カールは急いで白衣を羽織り、彼女を診療室に導いて椅子に座らせた。診察すると、体に4カ所打撲の跡があり、歯が2本折れていた。ケーテは診療助手を務め、まず口の中を消毒し、折れた歯を取り除いて薬をつけた。それから、体の打ち傷にこう薬をつけた。
「これで様子を見てください」。カールは、痛み止めの錠剤を与えた。「ああ、先生。何という生活でしょう」。バンコップ夫人は、あふれ出す涙を手で拭きながら訴えた。「主人の暴力はだんだんひどくなってきて、さすがに子どもには手を上げませんけれど、あたしには殴る、蹴るの暴行をはたらくんです。あの人、失業する前は、本当に優しい人だったのに」
カールはしばらく痛ましそうに彼女を見つめていたが、ふと気がかりな様子で尋ねた。「エミール君は毎日工場に働きに行っているんですか?」すると、またしてもバンコップ夫人は泣きながら訴えた。「あの子、朝暗いうちから家を出て、夜中に帰ってくるんです。でも、3日ほど前から嫌なせきをするんです」
「それでは、明日にでもエミール君をつれてきてください」。「でも・・・あの子絶対に工場を休まないんです」。「手遅れにならないうちに、絶対つれてきてください」。カールが強く言うと、ようやくバンコップ夫人はうなずき、帰っていった。
「あそこの家族は、もうボロボロだよ」。カールは言った。バンコップはべっこう職人だった。家族を養い、そこそこの暮らしをしていたが、やがてこの町に工場が建つと、家内工業が落ち目になり、とうとう廃業せざるを得なくなった。仕事は見つからず、悶々(もんもん)とするうちに、彼はうつ病になり、妻に暴力を振るうようになったという。
それからしばらくすると、今度は杖にすがった老人がやってきた。左足が腫れ上がっている。「どうしましたか?」と尋ねると、老人は顔をしかめて話し出した。「工場で機械に挟まれましてね。何とか足を切らずに済んでいるんですが、傷が化膿しちまったんです。でも、私らは日雇いでして保険に入れず、医者に見せられませんでした。でも、こちらのお医者様は貧乏人を助けてくださるといううわさを聞いたものですから。先生・・・何とか助けてください」
カールは妻を助手にして、麻酔の注射を打った後、患部を切開し、膿(うみ)を出してからまた縫い合わせた。「薬をあげますからね。1日に2度塗って包帯を変えてください。それから痛み止めの薬も出しておきましょう。仕事は2、3日休めますか?」そう尋ねると、老人は言った。「休めば仕事がなくなっちまいます。息子夫婦が死んじまったものでね。6歳の孫を養わなくちゃならないんです」。3日後にまた来るように言ってから、カールは患者を帰した。
ケーテはあることに気付いた。それは、貧しい生活をする者ほど病気やけがをする者が多い――という残酷な現実だった。
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<あとがき>
カール・コルヴィッツ医師と結婚したケーテは、第二の人生を始めるべく「労働者街」に移り住みます。しかし彼女を待っていたのは、想像以上に悲惨な生活を抱える労働者とその家族たちでした。失業の末、絶望から妻に絶え間ない暴力を振るうバンコップ。その夫人は助けを求めて診療所に駆け込んできます。また、小さな孫を養うために工場で働くうちに、機械に挟まれてけがをした老人もいました。
コルヴィッツ夫妻はこれらの患者たちに手厚い治療を施し、治療費ももらわずに薬を持たせて帰します。彼らが保険にすら入っていないことを知っていたからでした。バンコップ夫妻にはエミールという息子がいますが、年もいかないのに工場で働くうちに、劣悪な環境と過労のためにすでに肺を患っていました。
ケーテは、どん底生活をするこれらの人々と接するうちに、恐ろしい法則を知ります。それは、生活に困窮する者ほどけがや病気のリスクを負うことが多いということでした。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。