ケーニヒスベルクに戻って1カ月後。ケーテはスケッチブックを抱えてプレーゲル川沿いに歩いていた。そこには以前家内工業をやっていた家が軒を連ねていたが、その大方は廃屋になっていた。と、その3軒目から激しい子どもの泣き声が聞こえてきたので、思わず彼女は近づいていった。
入り口のドアはなくなっており、窓ガラスは割れていた。暗い家の中で2人の子どもが泣いている。中央のテーブルに一人の女がつくろい物に顔を埋めるようにして突っ伏していた。「母ちゃんが、起きないの」。ケーテの姿を見ると、上の男の子が抱きついて訴えた。
近寄ってみると、まだ息はあるが、どうやら気を失っているらしい。ケーテは町の中央通りに行き、商店街から人を呼んできた。パン屋と家具屋の店主が一緒に来てくれた。
「シュルツさん!しっかりしなさい」。2人が女の肩を揺すぶったが、女はがっくりと倒れてしまった。「病院につれていきましょうや」。家具屋はこう言って、近所から荷車を借りてきた。そして、女を毛布でくるみ、それに乗せると、中央通りにある「救護院」(貧しい人々や行き倒れの人を収容する施設)につれていった。
応対したのは若い医師だった。その顔を見て、ケーテはびっくりした。兄コンラードの友人であるあのカール・コルヴィッツという医師だったからである。彼が北ベルリンの「労働者街」に保険医として勤務していることは兄から聞いて知っていたが、この日は、この施設の医師が研修のため出張していたので、代わりに来ていたのだった。
コルヴィッツ医師は運ばれてきた患者を診療室に入れると、脈を調べ、それから聴診器を当てて丁寧に診察して言った。「体がかなり衰弱している上に、肺炎を起こしています。原因は過労と栄養失調です」。「かわいそうに。旦那が3カ月前に死んじゃったから、このハンナさんが昼も夜も働いて子どもたちを養っていたんだよ」。家具屋はため息をついて言った。「何とかしてあげられないでしょうか?」ケーテは、コルヴィッツ医師に言った。「取りあえず、この人は入院です」。彼は答えた。
そこで皆は患者を2階の病室に移した。その施設には、夜勤の看護師が1人来ていたが、ケーテはしばらく付いていることにし、2人の商店主たちは帰っていった。家具屋は、シュルツの子ども――男の子と女の子をしばらく預かってくれるという。
「久しぶりですね」。コルヴィッツ医師はケーテに言った。それから下の事務所に行くと、コーヒーを入れて彼女に出してくれた。
「『労働者街』でのお仕事大変でしょう? 大勢の人を助けておられることを聞いています」。「あそこはまさに『人生の掃き溜め』と言われている所でしてね。失業者や生活困窮者たちがゴロゴロしている不潔な場所です」。コルヴィッツ医師はため息をついた。「保険医なんて名ばかりで、実際はあそこで診る患者たちは保険に入っていない労働者か生活破綻者ばかりなんですよ」。2人はいろいろと話をしたが、2人の価値観がまるで同じであることにケーテは驚いた。
気が付くと、もう夕方になっていた。コルヴィッツ医師は近くの食堂にケーテを案内した。そこは以前家族と来たことのある店だったので、ケーテは懐かしく思った。2人はパンとソーセージ、そして酢キャベツを食べたが美味だった。
「中流階級以上の人を診る医者はたくさんいます。でも、自分は誰も嫌がって診ようとしない人を引き受ける医者になりたかった。何だかそういう人生の中に真実があるような気がしましてね」。その時、ケーテはなぜか亡き祖父ユリウス・ルップの言葉を思い出した。(人生で一番尊いことは、最も小さな兄弟のために何かしてあげることだよ)
彼女は、突然言った。「何の保障もないのに、そういう場所で気の毒な患者さんを診るのは大変ですね。誰かそばにいて助けてあげる人はいないかしら?」すると、コルヴィッツ医師は真剣なまなざしでケーテを見て言った。「あなたのような人がずっとそばにいて助けてくれたら――いや、これは勝手な願いです」
「もし、こんな私でよかったら、いつまでもおそばにいて、お手伝いさせてください」。これは、そのまま結婚の約束になった。その数日後、カール・コルヴィッツ医師はケーテの両親を訪ねた上で、結婚の申し入れをした。
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<あとがき>
ほんの偶然の出来事が、新しい人生の扉を開いてくれる鍵となることがあります。ケーテとカール・コルヴィッツの出会いもそうでした。たまたま郷里に帰り、スケッチのために貧しい人たちの家々が密集する路地を歩いていたケーテは、過労で倒れたある女性を近所の商店主たちと「救護院」に運んでいきました。
そこで担当医の代わりに来ていた医師のカール・コルヴィッツと出会うのです。彼は北ベルリンのスラム地区「労働者街」の保険医でした。2人は話をするうちに、その価値観も、信仰も、理想も不思議なほど一致することに驚きます。そして、最も惨めな人々のためにその人生をささげたいという思いが同じであることを確認し、やがて結婚することになったのでした。
ケーテの人生は、何とその節目において不思議な出会いに満ちていることでしょう。それはすべて、彼女が最も小さな兄弟のために人生をささげることが神様のご意志であることを示しているのです。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。