今日も左官職人カール・シュミットは船で送られてきた大量のれんがを仕事場に納めると、受注先の壁に施す装飾のデザインの下絵を描き始めた。当時の左官職人は、単に塗装だけでなく、石こうやしっくいで建物の装飾彫刻をする「建築彫刻家」でもあった。
仕事場裏の空き地では、彼の子どもたちが隣家の機織り職人ラアトケの子どもたちと遊び回っている声がする。そこへ、長女のユリイがこっそりやってきて、父親に言った。「ねえ、お父さん。この頃ケーテは変なのよ。みんなと遊ばずに、しゃがみ込んで絵ばっかり描いているの」。「あの子は静かな性格の子だから、あんまり騒ぎ回って遊ぶのが好きじゃないんだよ。そっとしておいてやりなさい」。シュミットは言った。
その頃、次女のケーテは廊下の隅にしゃがみ込み、手を動かして絵を描いていた。
(あたしたちを助けて…)今もあの女の子の声が耳元でする。彼女はそれに応えるように手を動かし続けた。(あなたと同じように、世間から見捨てられた子たちのために、あたしは肖像画を描き続けるわ)
そこへ、シュミットの工房で働いている銅板職人エルンスト・マイヤーが通りかかった。彼はしげしげと絵を描き続けるケーテの手元に見入っていたが、こう言った。「なかなかやるねぇ、お嬢ちゃん。よかったらあんたにデッサン(素描)を教えてあげようか」。そして、自分の親方であるシュミットの所に行って許可をもらうと、ケーテに絵の基礎となるデッサンを教えてくれたのだった。
それから数日後。シュミットは真っ白な製図用の紙の断ち落としを持ってケーテの部屋に入った。「ケーテ。おまえには絵の才能があるとマイヤーさんが言っていた。さあ、これをあげよう。これに絵を描きなさい。もし将来おまえが画家になったら、その才能を存分に発揮するがいい。しかし、一つだけ約束してくれないか」
「どんなこと? お父さん」。「それはね。どんな場合であれ、遊び半分に絵を描いてはならないということだ。絵というものは神様から頂いた宝なのだよ。だから、貧しい人の姿を描くときも、その人を侮辱することが断じてあってはならないのだ」。「約束するわ、お父さん」。ケーテは答えた。
シュミット家の隣には、家内工業で機織りをしているラアトケ一家が住んでいた。子どもが2人いて、長男マックスはシュミット家の長男コンラードと同い年で、下の妹リーゼはリースベストより1つ年下だった。両家の子どもたちは、まるで実のきょうだいのようにいつも一緒にシュミット家の裏の空き地で遊んでいた。ラアトケの家に行くと、いつも家の中からトントン、パタパタという手動の機織り機の音がして、陽気なラアトケの歌声が響いてくるのだった。
それがある日のこと。シュミット家の子どもたちがいつものように遊びに行くと、激しい喚き声とともに窓ガラスが割れ、ラアトケが命よりも大切にしている機織り機を外に放り出すのが見えた。
「こんなもの! あるだけ無駄だ!」「あなた、やめてください! 新しい仕事を見つければいいじゃありませんか」。妻が泣きながらその膝にすがった。
「新しい仕事だと? そんなものあるわけない。もう私らの時代は終わったんだ。みんな食うに困って物乞いするしかない。そんなことになる前に、こんな機械はぶっ壊すしかないんだ」
「お父さん、やめて」。2人の子どもがすがりつくと、彼は子どもたちを殴りつけ、外に突き出した。シュミット家の子どもたちは恐ろしさに震えながら家に戻った。何かとてつもない不幸がやってきたことを彼らは感じた。そして、それから間もなく、ラアトケが家の中で首をつって死んだといううわさが広がった。彼の遺体は町の人たちの手で共同墓地に埋葬され、ラアトケの妻は2人の子どもを連れてベルリンで働くためにこの町を去って行った。
「あの一家を破滅させたのは資本家たちだよ」。シュミットは家族に話した。産業革命の波が欧州に広がると、資本家たちは莫大(ばくだい)な資本を投じて企業の権利を買い取り、各地に工場を建てた。そして、それまで家内工業で生計を立てていた職人の手から仕事を奪い取り、彼らを貧困のどん底に突き落とした。そして、辛うじて工場に雇われた者は、劣悪な環境の中で長時間労働を強いられ、健康を損ない、別の者は失業の末発狂し、家族と共に破滅したのだった。
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<あとがき>
当時の左官職人たちがいかに優秀な技術と鋭い感性を持っていたか、驚かされます。彼らは職人の域を超えて芸術家そのものでした。カール・シュミットの工房で働く銅板職人のエルンスト・マイヤーもその一人でした。彼は、木炭で何やら絵を描いているシュミットの娘ケーテの手元をのぞき込んだだけで、彼女の並々ならぬ才能を見抜きます。そして、彼女にデッサン(素描)の手ほどきをしてくれたのでした。この職人に教えられたデッサンの基礎がなければ、版画家としてのケーテの才能は決して花開くことはなかったでしょう。彼女は惨めな労働者や生活困窮者の姿を版画に映し出すことで、社会に正義と公平を訴える決意を固めてゆくのです。
実に、こうした中には神様の摂理がありました。そんなとき、彼女の前で2度目の悲劇が起きます。その子どもたちと彼女がきょうだいのように仲良く遊んでいた隣家の機織り職人のラアトケが、失業で精神に異常をきたし、家族に暴力を振るった末に自殺したのです。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。