1885年、ケーテは18歳にして画家スタウファー・ベルンのもとで画家の修業をするためにベルリンに旅立った。この町には兄のコンラードがおり、ケーテは彼の下宿先に同居することになった。彼女はここで絵画の基礎になるデッサンを学ぶことができた。
1週間後に、初めて人間をモデルに描くことを許され、30代の女性が来てあるポーズをとると、塾生たちは一斉に絵筆を動かした。手を額に当て、何やら考え込むような姿の女性を模写するうちに、ふとケーテの耳にはあの投身自殺をした女の子の母親の叫びが聞こえたような気がした。それは、「ああ、つらい・・・つらい」と言っていた。彼女はキャンパスの下に「ふみにじられたもののための習作」と書き入れた。ベルン教授は父シュミットの友人で、彼はケーテの中に眠っている才能を早くも見いだし、丁寧に指導してくれたので、彼女はめきめき上達した。
ある日のこと。兄のコンラードは彼女をウンター・リンデン通りのカフェに誘った。そこには「社会民主党」議員カール・リープクネヒト、「フォアヴェルツ紙」の記者で作家リヒアルト・ディーメル、さらにいつか姉ユリイの嫁ぎ先で知り合った劇作家ゲルハルト・ハウプトマンが来ていて、彼らはコーヒーを飲みながら語り合った。
彼らの理想は一つの点で一致していた。それは、圧迫される下層階級の人々の覚醒を促し、自立を助ける――ということだった。ケーテはいつになく心が高揚してきて、こっそりと忍ばせてきたスケッチ「ふみにじられたもののための習作」を皆に見せた。
「これは革命だ!」リープクネヒトは、驚いたように言った。「この絵は、われわれよりずっと早く社会改革を実現してくれるかもしれない」。そして、後ろを向いて言った。「ねえ、君はどう思うかね」。そのとき、ようやくケーテは隅に一人座って皆の話に耳を傾けている男性の姿に気付いた。それは、カール・コルヴィッツという医者でコンラードの友人だった。
「私は毎日患者と向き合っているきりで芸術に触れる機会がほとんどありませんがね」。彼は静かな口調でこう言うと、ケーテのそばに来て手を差し出した。「でも、こういう絵が描けるのは、素晴らしい才能を持っておられるのだから、大いに精進なさってください」。ケーテはその手を握った。大きな温かい手だった。この人物との出会いが後に彼女の人生を大きく変えることになろうとは、このとき誰も予想しなかった。
ベルン教授のもとで絵画の基礎をしっかりと学んだケーテは、その後さらにミュンヘンのルードヴィヒ・ヘルテリヒの美術学校に入学することになった。彼女はこの学校の寄宿舎に入り、そこから教室に通って猛烈に勉強した。この学校には各地からたくさんの若い学生が集まってきており、ヘルテリヒからデッサンや絵画の手法を学んでいた。ケーテは彼らと共に「コンポニール・クラブ」という会を作り、互いに切磋琢磨しつつ修業を続けた。
しかし彼女は、教室に展示されている自分の作品『自画像』と『ふみにじられたもの』の前に立つと、いかにも他の生徒の作品との間に隔たりがあることを感じないではいられなかった。いかにも自分の絵は暗く、重苦しかった。どうしてこんな絵を描くのか自分でも分からなかった。
そのとき、彼女の肩に手が置かれた。振り向くと、ヘルテリヒ教授だった。「自信を持ちなさい」と、教授は言った。「色彩の鮮やかなものは人の目を奪うが、一時的なものだ。魂の底から描き出されたものは暗い色彩の中にあっても永遠に輝き続けるものだ。君の絵は、魂の芸術だ」。ヘルテリヒの言葉は、ケーテの胸に希望の火をともしてくれたのだった。
こうして3年がたち、彼女はミュンヘンでの絵の修業を終えた。
1890年。ケーニヒスベルクに帰ると、父シュミットはケーテのために家の後ろに部屋を増築し、アトリエを作ってくれていた。「ここでおまえの芸術を完成させなさい」と彼は言った。ケーニヒスベルクの町で見かける貧しい人々の姿、プレーゲル川の岸辺で働く男たち、子どもを抱く母親――そうしたものが彼女の目に入り、あらゆるものがデッサンの材料となった。それから程なくして、ヘルテリヒ美術学校から、彼女が卒業記念に提出した『ふみにじられたもの』が入選し、学校の講堂に飾られることになったとの通知が来たのだった。
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<あとがき>
ケーテは、祖父の遺言を胸に、18歳でスタウファー・ベルンという画家のもとに弟子入りし、絵画を学ぶことになりました。初めて人間をモデルにしたデッサンを描くことを許され、「ふみにじられたもののための習作」を完成させたのでした。そのモデルというのは、あの日目にした投身自殺をした少女の、母親の嘆きをテーマにしたものでした。
その後彼女は、ミュンヘンのヘルテリヒ美術学校に入学し、いよいよ本格的に絵画の修業を積むことになりました。その頃、兄のコンラードは「フォアヴェルツ紙」の主幹となり、社会主義者リープクネヒトや劇作家ゲルハルト・ハウプトマンなどとグループを作っていました。
そんな兄の紹介で、ケーテはカール・コルヴィッツという医師と初めて出会いますが、この人こそ後のケーテの運命を大きく変えた人でした。こうして3年の年月が過ぎた後、彼女はケーニヒスベルクに帰り、父のシュミットが建ててくれたアトリエで、いよいよ版画家としての第一歩を踏み出します。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。