1. 一枚の証拠文書
証拠がないために、勝つべき訴訟が暗礁に乗り上げてしまった。依頼会社から大きな段ボール十数箱で山ほど書類が届いたが、その膨大な資料をいくら調べても、一番肝心な事実を証明する証拠が見つからなかった。
思いあぐねて、ある晩、「主よ、どうか証拠を見つけることができますように!」と深く祈って眠りについた。翌朝、目が覚めると、「あの書類が証拠になるのではないか?」と、ふと一枚の文書を思いついた。「でも、あの書類には日付も署名もないから、証拠としての価値はないだろう」とすぐに心の中で打ち消してしまった。
しかし、思い切って裁判に提出した。そうしたら、相手方はあっさりその文書を証拠として認めてくれたので、結果として勝訴することができた。
難問に取り組んで苦闘しているときに、「あっ、こうすれば解決するのではないか!」と、ふと気付くことがある。新発明や新発見は、この「気付き」によることが多いと思う。
小さな町工場から「世界のホンダ」を築き上げた本田宗一郎さんは、寝食を忘れるほど仕事に没頭したが、ふと気付いたことを忘れないようにその都度メモにして書いていた。その「気付き」を実行していった結果、自動車業界の熾烈な技術競争に打ち勝ってきたという。通常の思考によっては到達できないことを、「気付き」は成し遂げてしまう。
2. 信仰と気付き
信仰もこの「気付き」によるところが大きいと思う。人間の知性で聖書の神髄を理解し納得することは非常に難しい。私も聖書を知性で理解しようとして、心から信じるまでに長い年月がかかってしまった。
苦悶(くもん)して救いを求めていたあるときに、心の深いところで聖霊に満たされた。イエス・キリストが自分のそばに現実に居ることにハッと気付き、それまでの疑問が一挙に解消した。以来、信仰がぐらついたことは一度もない。明らかにこの「気付き」は聖霊によるものであった。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」(1コリント12:3)とある通りである。
もちろん、思考や論理は大切である。しかし人間の知り得るところはほんの一部にすぎないため、必ずしも正しい結論を導き出すとは限らない。ビジネスでも政治でも、また生活全般においても、考える要素が多過ぎると決断ができなくなる。だから、すべてをご存じである主にいつも祈り、主から直接的な導きを頂く必要がある。
心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。(箴言3:5、6)
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