「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである」(ヨハネ3:18)
あるご夫婦が、ふらりと骨董屋に立ち寄りました。すると深い緑色をした大小2つの茶碗に目が留まります。しかし、値段を見ると大きい茶碗が50万円、小さい方が100万円。妻が夫に聞きます。「あなた、どうして小さい方が高いの? 普通は大きい方が高いのに」
すると夫が妻をバカにしたようにうんちくを傾けます。「骨董品はスーパーの大根のように大きければ高いというようなものではない。よく見ろ、小さい方が色の深みとか焼き具合とかはるかに優れている。小さいけどこっちの方が出来がいいのだ」
そこにアルバイトの店員がやってきて、「あら、値札が間違ってる」と言いながら、大きい方に100万円、小さい方に50万円の札を置き換えて店の奥へと入っていきました。
テレビで「お宝鑑定」の番組があります。その道の専門家の方々が、骨董品の作者や時代、それにまつわる出来事を紹介します。「さすがにプロだなー!」と感心させられます。しかし実はこのとき、鑑定人自身もその力量を試されているのです。
例えば、鑑定人が手にしているものが国宝級のものだとします。それをもし鑑定人が「これは素人の手によるもので値段はただ同然です」と鑑定したらどうでしょうか。国宝級の品物が、そのときから安物に変わるのでしょうか。そうではなく、逆にその鑑定人の能力が疑われるのです。
同様に私たちは、「イエス・キリスト」に対する態度によって、自分自身がどんな人間であるかが試されているのです。ヨハネの福音書18章に、イエス・キリストを尋問するアンナスの姿が描かれています。アンナスは紀元7年から14年まで大祭司を務めた人物で、その後5人の息子たちが次々と大祭司の位に就き、このときは娘婿のカヤパが大祭司を務めていました。
アンナスは、この時代のユダヤ人社会で最強の権力を持つゴッド・ファーザーでした。エルサレム神殿で犠牲のための羊や鳩を売ったり、両替をした場所は「アンナスの市場」と呼ばれていて、そこで民衆から吸い上げた莫大(ばくだい)な利益は、アンナスの懐に入っていったのです。
かつてイエスはここで、このあくどい商売をしている人々を神殿から叩き出したことがありました。当然それはアンナスの怒りを買いました。こういうわけで、捕らえられたイエスはまず真っ先にアンナスの所に連れてこられたのです。
アンナスはイエスにさまざまなことを尋問し脅しをかけてきます。しかし、イエスは当時の最高権力者で、すべての人々が恐れるアンナスを前にしても威風堂々と自らの公明正大さを主張します。
この場面は、実に興味深い場面です。一見、時の権力者アンナスが神の御子イエスを裁いているように見えますが、実際に裁かれているのはアンナスです。アンナスは、自分の前に自分の救い主が立っておられるのに、それが見えていないのです。つまり、アンナスの霊的な眼の暗さが明らかになっているのです。
イエス・キリストを無視したり、反発したり、批判しても、イエス・キリストご自身の価値が変わるわけではありません。むしろ、その人の高慢さや自己中心性や霊的無知が明らかになるだけです。そして、自らの身に神の裁きと永遠の滅びを招くことになるのです。まさしく「信じない者はすでに裁かれている」のです。
さて、あなたはイエス・キリストを誰だと言いますか。
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