1947年、イスラエルのクムランで、20世紀最大の発見と言っても言い過ぎではない、世紀の大発見がありました。それまで知られていた最古の旧約聖書写本より、さらに千年も前に記された写本、死海写本が見つかったのです。死海写本発見の翌48年、1900年ぶりにイスラエルが建国されたことは神のタイミングであると感じざるを得ません。
ある日、ベドウィンの羊飼いの少年が、飼っている子ヤギを追いかけながら石を投げると、偶然、死海写本の入ったつぼに当たり「カーン!」という音がしたことから、つぼに入った死海写本を発見するに至りました。ベドウィンたちは、見つけた4つの写本をベツレヘムの古物商の靴職人のもとに持っていき、その価値が分からないので二束三文で売り渡してしまいました。
古物商は古代シリア語の文書かと思い、死海写本を聖マルコ修道院のアタナシウス院長に見せました。アタナシウス院長は、4つの写本、①イザヤ書、②ハバクク書註解、③共同体の規則、④外典創世記を100ドルで買い取りました。
同じ頃、ヘブライ大学の考古学教授であるエレアザルとビンヤミンは、ベドウィンたちが発見した写本を古物商が入手したことを知り、命の危険を冒して47年11月29日に⑤戦いの書、⑥感謝の詩篇、⑦イザヤ書を買い取りに行きました。
48年1月、エレアザル教授とビンヤミン教授は、聖マルコ修道院のアタナシウス院長のもとに行って、3つの写本の他に、さらに4つの死海写本を買い取ろうとしましたが、商談が決裂しました。
その後、死海写本の第三者による客観的評価を知ろうとしたアタナシウス院長は、米オリエント学研究所の研究者であるトレヴァーに写本を見せました。トレヴァーは、写本の書体や語法が1898年に発見されたナッシュ・パピルスのものとよく似ていることから、「本物である」と断定しました。
48年5月には第一次中東戦争が起こり、アタナシウス院長は写本を安全のためにレバノンのベイルートに移送し、その後、米国に移送しました。移送先では、さまざまな商談がなされますが、最終的にアタナシウス院長が1954年6月1日のウォール・ストリート・ジャーナル紙に「写本売り出し」の広告を出しました。
「売りたし。4つの死海文書。少なくとも紀元前200年ごろにさかのぼる聖書テキスト。個人・団体を問わず教育機関や宗教施設に最高の贈り物なり」。写本は、イスラエル政府の意を受けたエレアザル教授とビンヤミン教授の息子によって、25万ドル(現在の価値で200万ドル以上)で購入されました。
当初、ベドウィンによって二束三文で売られた死海写本は、買い戻すのに随分高いお金を出すことになりましたが、イスラエルは最初の7つの写本のすべてを入手することができました。
7つの写本は、エルサレムのパレスティナ考古学博物館に置かれましたが、61年に隣国のヨルダンが「死海文書はヨルダンの財産である」と宣言したことから、66年には博物館もイスラエルの国有化としました。しかし、ヨルダン政府はそれ以降も死海文書返還要求を続けているそうです。
死海写本は2000年に「キリスト降誕2千年」を記念して日本でも展示されました。東京のオペラシティで「東京大聖書展」が行われ、私も展示会に足を運びました。
クムランの洞窟の中で眠っていたときには、ほとんど劣化が見られませんでしたが、展示のために度々移動しているうちに劣化が進んでしまいました。しかし、日本のマイクロフィルムの技術により、死海写本は当初の色合いと姿をしっかりとフィルムに残すことに成功しています。
その後の10年で、さらに200巻の巻物の写本と、数千に及ぶ写本の断片とが発見されています。旧約聖書のイザヤ書は全巻の写本が発見されていますし、旧約聖書の他の書も、エステル記を除いてすべての書の一部が発見されています。
聖書は信仰によって神の言葉であると信じられてきましたが、死海写本の発見によってそれを確認することができました。
「『呼ばわれ』と言う者の声がする。私は、『何と呼ばわりましょう』と答えた。『すべての人は草、その栄光は、みな野の花のようだ。主のいぶきがその上に吹くと、草は枯れ、花はしぼむ。まことに、民は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ』」(イザヤ書40章6〜8節)
目に見えるすべてのものは、必ず過ぎ去ります。私たちは、過ぎ去るものの上に人生の土台を据えるのではなく、何が変わっても変わることがなく、一点一角であっても地に落ちることなく、そのまま成就する聖書の言葉に人生の土台を据えて歩んでいきましょう。
「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます」(マタイの福音書5章18節)
神様は生きておられます。
◇