聖書には「はからずも」という言葉が10回程度使われています。聖書は何十回も読んでいるので、何百回も「はからずも」という言葉を読んでいることになりますが、そのほとんどが他人事だったのではないかと思います。
有名な箇所は、ルツが落穂拾いをしに行った畑が「はからずも」ボアズの畑でした。これは、神がただ一度、特別にルツに与えられた祝福だったのではないかと、本当に他人事のように捉えていました。
しかし、人生を振り返ってみると、これと負けず劣らずの「はからずも」が私に与えられていることに気付きました。「はからずも」の中には、「偶然」「想定外」などの意味が含まれますが、それは私自身、人間の視点に立って見ているからです。しかし神の視点に立つならば、そうではありません。神が主権を持ってはかっておられ、時至ってそれが実現したのです。ルツは、神の完全な導きの中でボアズの畑に行き、落ち穂を拾い集めたことから2人は出会い、やがて結婚をし、その家系の中からイエス・キリストが誕生するようにされたと分かるのです。
先日、昔乗っていたバイクや車、昔使っていた無線機やパソコンなどの写真を見ながら、懐かしい思いに浸っていましたが、そこから、さまざまな「はからずも」の記憶がよみがえってきました。クリスチャンが普通に使う「神様はすごい!」「神様は素晴らしい!」「WOW!」という言葉では表現し切れないほどの衝撃、驚きであり、感嘆の雷に全身が打たれたような感じです。
その驚きは、下記聖句の「ああ」です。
「ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン」(ローマ11:33〜36)
私の人生は「はからずも」の連続でした。そして、その「はからずも」の積み重ねの中で今があるのです。これを知ったら、人と自分を比較して、人をうらやましがることがまったく愚かなことだと感じます。神様は他の人にも、その人にとって最高最善の「はからずも」を与えておられます。
しかし神様は、私の人生に、最高最善の「はからずも」を与えておられます。ただ神様の前に「ああ」としか言いようがありません。ゆっくり過去を振り返り「はからずも」の祝福を味わい、感謝し、感動し、喜びながら一歩一歩を歩んでいきたいですね。
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