人生の勝ち組、負け組という言葉をよく耳にします。一般的に勝ち組とは、社会的・経済的に成功した人、いわゆる格差社会において優位に立つ人の集まりを指し、負け組はその反対を指しているように思います。
ただ、社会的・経済的な成功者が真の人生の勝利者ではなく、むしろ、逆境の中であっても圧倒的な勝利の人生を歩めるなら、それこそ私たちの目指すべき姿なのでしょう。
パウロの晩年は、厳しい迫害の中にありましたが、彼はローマ人への手紙の中で、あらゆる逆境の中で、私たちを愛してくださった方(イエス・キリスト)によって圧倒的な勝利者になることを告白しています。
しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。(ローマ人への手紙8章37節)
パウロは、投獄されて自由を奪われ、やがて処刑される厳しい現実を通りましたが、彼の弱さを通し、神様はご自身の栄光を豊かに現されました。
いったい何に対しての勝利なのか?
それでは、圧倒的な勝利とは、いったい何に対しての勝利なのでしょうか? 貧困や病、あるいは社会問題や人間関係そのものに対する勝利なのでしょうか? もちろんそのような個別の戦いに意味がないわけではありません。
しかし、私たちの人生に暗闇を生む大元の存在こそ、私たちの戦うべき相手だと聖書は告げています。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ人への手紙6章12節)
勝利は継続できるのか?
この暗闇の世界を支配する悪魔と悪霊たちは、私たちの信仰を歪めて罪の奴隷に引きずり落とし、私たちを通して現されるはずの神様の栄光を妨害しようとします。
この霊の世界の戦いに自力で参戦しても、私たちの勝利は容易に偽りとなり、みじめな信仰生活を送ることになります。パウロもそのような経験をしています。
私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ人への手紙7章24節)
私たちはこの世に生きている限り、暗闇の支配者に攻撃され、勝利を得たとしても、次の瞬間、そこから転がり落ちるようにさえ思えてきます。
圧倒的な勝利の人生、その継続の秘訣は?
わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。(ヨハネの福音書15章5節)
圧倒的な勝利を継続する秘訣は、イエス・キリストを受け入れ、そこに留まることです。それは、ぶどうの木につながる枝に収穫が約束されているのと同じです。
時には、凍えるような寒さの中、枯れたようにたたずむぶどうの木であっても、太い木につながる枝には、絶えず生きる力が注がれ、時期が来れば、葉が生い茂り、たわわに実をつけ、やがて収穫の時を迎えます。
私たちもぶどうの木であるイエス・キリストにつながり、彼からあふれるばかりに注がれる神様の愛を受け取り続けたいものです。私たちはそのために選ばれ、神の子としてイエス・キリストの内に入れられたのです。
私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。(ヨハネの手紙第一5章20節)
地上に天国の日々を
私たちがイエス・キリストのうちにあり、彼とつながるようにしてくださった方は真実な方ですから、あらゆる霊的な戦いにおいても、彼に信頼すべきです。
私たちの勝利は継続し、やがて天の父なる神様の聖さを体験し、地上に天国の日々を得ることになるでしょう。
しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(コリント人への手紙第一15章57節)
ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。(マタイの福音書5章48節)
日本の各地におられる信仰者の歩みが守られ、圧倒的な勝利の人生を全うすることができますように・・・。
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