信仰生活を長年続けてきた人の中に「信じて従ってきたのに、なぜ?」と、現実を嘆く人がいます。もちろん、弱音を吐かない限り、外部の人には分からないのですが、当人にとっては、信仰の土台を揺るがす大きな問題になります。
期待と現実のギャップ
全能の神様を信じると、神様に期待するダイナミックな人生が始まります。大きなビジョンが与えられることもあります。そのビジョンの実現に向かって生きるとき、神様の御旨に従って生きる充実感が得られるかもしれません。
しかし、現実は期待したように進まず、次第に「信じてきたのに、なぜ?」と神様に訴えることがよく起こります。つらい時かもしれませんが、実はこのような時こそ、より深い神様の恵みを知る機会になります。
自ら十字架を選び取り、自力で背負っていないか?
そんな時、これまでのつらかったことや将来に対する不安をいったん置き、今の自分を探ってみたいものです。
だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。(ルカの福音書9章23節)
この箇所だけを読むと、信仰生活とは、自分の希望や願いを捨て、神様に喜ばれる働きに献身することだと思うかもしれません。私たちは、幼い頃から目標に向かって努力するよう教えられていますので、信仰生活も自力で切り開こうと考えがちです。頑張れば、神様も助けてくれると本気でアドバイスする人もいます。
しかし、イエス・キリストに従う歩みを自分の選択や努力で成し遂げようとするなら、それは、もはや信仰生活ではありません。人はそもそも自分を捨てることも、自分の十字架を見付けることも、またそれを負ってイエス・キリストに従うことも、到底できないことをまず心に留めたいと思います。
イエス・キリストは、自ら十字架を負ったわけではない
父がわたしにおられ、わたしも父にいることを、あなたがたが知り、また深く理解するようになるためです。(ヨハネの福音書10章38節)
イエス・キリストは、父なる神といつも共におられました。彼の中に父なる神がおられ、父なる神の中に彼がいたので、彼は父なる神の御旨のままに歩むことができました。彼が自分で十字架を負ったのではなく、父なる神が彼に十字架を負わせたのです。
私たちの主であり模範であるイエス・キリストが、自分で十字架を負ったのでないなら、私たちが自分の十字架を自ら負うことなどできるはずがありません。
自分を捨てることができるのか?
自分の希望や願いを捨てることと自分を捨てることは違います。自分を捨てることは人が自力で行えることでは決してありません。しかし、私たちがイエス・キリストを信じたとき、私たちの思いとは関係なく、次のようなことが私たちの内で実現します。私たちは既に捨てられています。
私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。(ローマ人への手紙6章4節)
もちろん、既に自分が死んでいる(捨てられている)とは感じないかもしれません。まして、新しいいのちを実感できないかもしれません。しかし、聖書のことばですから、私たちが実感できなくても、実際に私たちの中に起こっているのです。
まず、自分の内にある天国を味わおう
私たちは、イエス・キリストを信じたとき、既に死んで捨てられ、神様の子どもとしてイエス・キリストの復活のいのち(永遠のいのち)にあずかるものにされているのです。
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。(ローマ人への手紙8章15、16節)
その原点に帰り、内住の聖霊の声に耳を傾け、創造主である偉大な神様と親しく交わることができるなら、与えられた自分の十字架を負ってイエス・キリストに従う歩みは、実に楽しく、天国の心地となってくるでしょう。
日本の各地におられる信仰者の歩みが祝福され、神様の栄光が現されますように・・・。
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