「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)
ある豪華客船が事故で沈み出しました。船長は乗客たちに速やかに船から脱出して海に飛び込むように指示します。船長は、それぞれの国の乗客に言います。
アメリカ人には「飛び込めばあなたは英雄です」
イギリス人には「飛び込めばあなたは紳士です」
イタリア人には「飛び込めばあなたは女性にモテます」
日本人には「みんな飛び込んでますよ」
全体の調和を大切にする日本人。隣の人を見て合わせようとする日本人。何と愛すべき国民性ではありませんか。明治・大正時代に内村鑑三という教育者、思想家がいました。彼は「私は2つのJを愛する」と言いました。2つのJとは ”Jesus” と ”Japan” です。そして「私は日本のために、日本は世界のために、世界はキリストのために、そしてすべては神のために」と言いました。私も日本を愛する日本人でありたいと思います。
「日本を愛する」とは偏狭な国粋主義的な愛国心ではなく、英語なら ”Nationalism”(国粋主義)ではなく ”Patriotism”(祖国愛)です。本当に祖国を愛するとは、自分の国が世界に貢献できる国となるために、自分の国のために祈り、働き、共に生きることです。また、その祖国の良いところを守り、生かし、世界に広めていくことです。そして世界の人々から「この地球上に日本という国、日本人という民族が存在していて本当に良かった」と言われるようになることです。
かつての日本はそのような評価を受けていました。太平洋戦争の末期、日本が敗戦濃厚だったとき、フランスのパリで行われた晩餐会で元駐日フランス大使のポール・クローデルがこんなスピーチをしています。「私にはどうしても滅びてほしくない民族が一つあります。それは日本人です。あれほど古い伝統、文化を今に伝えている民族はありません。日本人は貧しい国民です。しかし高貴な国民です」
当時フランスはドイツと戦っており、日本はドイツの同盟国でしたから、フランスから見たら日本は敵国でした。しかしクローテルは、日本はどうしても滅んでほしくないと語ったのです。彼は駐日大使として6年間日本に滞在しましたが、日本人と触れ合うことで日本人の持つ魅力に引かれていったのです。1923年に関東大震災が起こり、東京にあったフランス大使館も焼けてしまいました。地震の日の夜、東京から横浜へ歩いて行く途中で見た光景に、彼は感動を覚えたといいます。自分の身に降りかかった不幸を淡々と受け止め、秩序を保ち、老人や子どもたちを守り、暴動や略奪を起こすこともなく礼節を忘れない姿に心を打たれたのです。
これは2011年3月の東日本大震災の時も同じでした。救援物資を順序よく並んで受け取り、スーパーマーケットや店は略奪されることもなく、津波で流された現金や宝飾品の入った金庫やバッグが各地の交番や警察署に山のように届けられました。
しかし残念なことに、近年この日本人が持っていた道徳観が徐々に崩れ始めています。その一つの要因が、学校やマスコミなどを通して教えられる自虐的な歴史観です。「日本人は戦争中にこんな悪いことをしてきたんだ」と教えられるばかりで、日本人がかつて世界でなしてきた偉業や良い事柄はあまり教えられていないのです。ですから日本という祖国に誇りが持てない、日本人であることの自信も誇りも失っているのです。
私たちは自分の祖国を愛せなかったら、祖国の救いのために祈ることはできません。モーセやパウロは同胞であるユダヤ人を心から愛し、ユダヤ人であることを誇りとしていたからこそ、ユダヤ人のために必死のとりなしの祈りができたのです。
「モーセは主のところに戻って言った。『ああ、この民は大きな罪を犯しました。自分たちのために金の神を造ったのです。今、もしあなたが彼らの罪を赦してくださるなら──。しかし、もし、かなわないなら、どうかあなたがお書きになった書物から私の名を消し去ってください』」(出エジプト32:31、32)
「私は、自分の兄弟たち、肉による自分の同胞のためなら、私自身がキリストから引き離されて、のろわれた者となってもよいとさえ思っています」(ローマ9:3)
私は日本と日本人を愛する故に、日本人の救いを祈ります。そして、多くの日本人が世界宣教の働きに携わる日が来ることを切に祈っています。
◇