「まことに私たちの神、主は私たちが叫び求めるとき、いつも近くにおられる」(申命記4:7)
ある人がスーパーマーケットに車で買い物に行きました。すると、折からの雨。しかも駐車場はどこもいっぱい。遠くの方に行けば止められますが、傘もなく濡れてしまう。近くの車が出て行くのを待っているのですが、動く様子はありません。
そこでこの人はお祈りを始めました。「神様、どうか近くに早く空きができますように。もし、この祈りを聞いてくださったのなら、しばらく行っていませんでしたが今度の日曜日に教会の礼拝に出席します。それから毎日聖書を読んでお祈りもします。それから・・・」と祈っていると、目の前の車がスーっと出て行きました。
すると彼はあわてて言いました。「神様、今のお祈りは全部忘れてください。今、自力で駐車場スペースを見つけましたので」
「苦しい時の神頼み」は決して悪いことではありません。人が自分の能力や努力の限界を超える問題に直面したとき、人間以上の力ある存在に心を向け助けを求めるのは極自然な行為です。そんな祈りや求めに応じて神は助けを下さいます。
しかし、大切なのはその後の私たちの態度です。問題の解決を神からの助けと感謝して信仰の世界にとどまるのか、それを単なる偶然、たまたま運が良かっただけと解釈して再び元の不信仰の世界に戻るかによって、その後の私たちの人生は大きく変わってくるのです。実は「信仰」と「不信仰」は紙一重なのです。ですから、自分の内側に小さな信仰の火種が熾(おこ)ったら、それを大切に育てていくことが大切です。
アガサ・クリスティ著『春にして君を離れ(Absent in the Spring)』にひとりの主人公が登場します。彼女がバグダッドに娘を訪ねたとき、その帰りに思いがけず昔のクラスメイトに出会います。そのクラスメイトはいかにもみすぼらしい格好をし、ひどく老いた顔をしています。
「年齢以上に老けたなー」と思いながら自分はチラっと鏡を見ます。しわひとつない、白髪もない、旅行着を着ている。満足感にひたりながら、友人に対する憐(あわ)れみと侮蔑の心が混じる中、会話を進めます。その中で友人から気になる言葉をチラっと言われます。「あなたもお祈りしたらね。『私の罪をお赦(ゆる)しください』と、ひとこと言えたらね」
その後、英国に帰ろうとすると汽車が砂漠の真ん中に止まって何日も過ごします。明らかに砂漠という場所を設定したのは、この女主人公の心が砂漠のように不毛の状態であったことをクリスティは言いたかったのでしょう。女主人公は砂漠の中で何もすることがないままに、自分の今までの人生を振り返ります。自分は良き妻、良き母親だと思っていた。しかし、自分の生活のひとコマ、ひとコマを吟味していくうちに、自分がいかに愛のない人間であったかに気付きます。
どんなに自己満足を追求し、自己中心であったかを知らされます。夫の心は自分から離れ、他の女性に移ってしまっていること、子どもたちも自分の存在を疎ましく思っていることに気付くのです。そしてついに砂漠の中で、自分は失われた人間だと気付き、キリストに「私の罪を赦してください」と祈ります。そして、ようやく動き出した汽車に乗って帰る途中、彼女は決心します。「帰ったら夫に謝ろう。私が悪かったと言おう」
しかし帰宅した彼女は謝らなかったのです。謝らなかったどころか、あの砂漠で経験した反省の心、悔い改めの心、キリストへの祈りなどすべては一時的な気の迷いにすぎなかったと否定し、再び以前の自己満足と自己中心の生活に戻っていきます。そして、以前にも増して深い孤独を抱えながら彼女は生きていくのです。
彼女は砂漠の真ん中で信仰の糸口を見つけたのに、それをあっさりと手放してしまったのです。私たちも人生の困難の中で信仰の芽生えを経験します。その時しっかりと信仰に踏みとどまって、一歩前へ進んでいきたいものです。
信仰と不信仰は隣り合わせの世界なのです。
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