日本キリスト教海外医療協力会(JOCS)の海外派遣ワーカーとして、東アフリカのタンザニアに派遣され、現在は新型コロナウイルスの影響で帰国している雨宮春子さんが1月25日、世界宗教者平和会議(WCRP)日本委員会の新春学習会で活動報告を行った。雨宮さんは、死産・新生児死亡率が高く、栄養失調で多くの子どもたちが亡くなっているタンザニア北西部タボラ州における活動を報告するとともに、帰国後、新型コロナウイルスのクラスター(感染集団)が発生した札幌市内の介護老人保健施設に緊急支援で入った経験を語った。
死産・新生児死亡率が全国平均の4倍 タボラ州カリウア
日本聖公会北海道教区の故・雨宮大朔(だいさく)司祭を父に持つ雨宮さんが海外医療を志したのは小学生の頃。サマーキャンプで、発展途上国で働く人の話を聞いたことがきっかけだった。「過酷な環境にいる子どもたちの姿を見て、『共に生きたい』『何かできることを探したい』と思うようになりました」。それから看護師として6年、助産師として9年の経験を積み、2019年1月にJOCSの海外派遣ワーカーとして、タンザニアに赴任した。
雨宮さんが活動するタボラ州は、首都機能のある湾岸都市ダルエスサラームから、飛行機では3時間、陸路では15時間かかる内陸部の州。タンザニアの中でもインフラ整備が遅れており、衛生環境も悪く、医療水準が低い地域だ。タンザニアの死産・新生児死亡率は全国平均で1000出生当たり51。日本の1000出生当たり2〜3と比べると、非常に高い。さらに雨宮さんの主要活動地であるカリウアは、州内でもさらに医療水準が低く、雨宮さんが働く聖ヨハネ・パウロ2世病院における死産・新生児死亡率は全国平均よりも4倍以上高い。
そのためJOCSは、2007年から提携しているタボラ大司教区保険事務所(TAHO)と協力し、18年から母子の命を守る5カ年プロジェクト「ママ・ナ・ムトト」(スワヒリ語で「母と子」の意)を始めた。雨宮さんはこのプロジェクトの一環として、妊産婦と新生児が適切なケアを受けられるよう、母親を対象とした健康教室の実施や、現地スタッフの教育などを行っている。
産後の母子2組がベッド共有することも
タボラ州の中心部以外の住民の多くは、わらで作った屋根にレンガでできた小さな家に住み、2世代、3世代の家族が重なり合うように寝て暮らしている。水道が整備されている家も少なく、水道があったとしても水が出ないことや、水道から砂が出てくることもあるという。移動は徒歩や自転車がメインで、妊婦健診のために2時間以上歩いて来る人も珍しくない。そうした状況にあるため、妊婦健診や5歳未満健診の受診率は非常に低い。医療機器も整っていなく、聖ヨハネ・パウロ2世病院では産後、ベッドの不足から母子2組が1つのベッドを共有することもあるという。さらに病院では食事が出ないため、母親たちは自分で用意する必要がある。
予防接種も在庫がないことが多く、貧しさから多くの子どもたちが栄養失調の状態にあり、十分な教育も受けることができないでいる。「タボラ州の人々の健康と命を守るのはとても難しい状況です」と雨宮さんは言う。
7歳で体重9キロ、ザイナちゃんの死
雨宮さんは、そうした状況の中で出会った7歳の少女、ザイナちゃんを紹介した。自宅出産で生まれたザイナちゃんが初めて健診を受けたのは生後8カ月の時。記録に残っている当時の体重はわずか3キロだった。その後は5歳まで定期的に検診を受け、5歳の時の体重は13キロに。しかし、今年1月に病院に来たザイナちゃんは体重が9キロに激減、重度の栄養失調状態にあった。「体はあばら骨がはっきりと浮き上がっており、骨と皮しかないような状態でした。歩くことも、話すこともできませんでした」
雨宮さんたちは、ザイナちゃんを何とかして救おうと、あらゆる手段を検討した。TAHO傘下の医療施設では治療は困難とみられたことから、タボラ州内の政府系病院へ車まで4時間かけて搬送することを決めた。搬送から1週間後、表情が非常に明るくなったザイナちゃんの写真が送られてきた。雨宮さんたちは回復に向け大きな希望を抱いたが、2月下旬、残念な報告が届いた。順調に回復していたものの、肺炎にかかってしまい、7歳でその短い生涯を終えることになったのだった。「病院に向かう車の中でザイナを抱っこし、水を含ませながら4時間の道のりを行きました。か弱い力で握り返してくれるザイナの手のぬくもりは忘れることができません」と雨宮さんは振り返る。
札幌市のクラスター発生施設に緊急支援
その後、新型コロナウイルスの感染が拡大し、昨年4年には外務省からアフリカ在住邦人に避難勧告が出され、雨宮さんも緊急帰国を余儀なくされた。帰国後はリモートで現地とやりとりしながら在宅ワークをしていたが、多くの医療従事者が現場で新型コロナウイルスと闘っている様子を見ながら、「私は何をしているのか」という思いが日に日に強くなっていったという。
そうした中、新型コロナウイルスの第二波にあった札幌市の介護老人保健施設でクラスターが発生。看護師が不足していることを知り、すぐさまJOCSに許可を取り、緊急支援に入った。利用者が100人余りの規模の施設だったが、クラスター発生後、職員にも感染が広がったことで約50人いた医療・介護職員は11人に激減。雨宮さんが支援に入ったときにはすでに、もともと施設で働いていた看護師は一人もいない状態となった。
「看護も介護も崩壊している状態でした。ここは日本なのだろうか。医療機器や医療従事者が整っていない状況で重症者を診なければいけない状況は、まるでタボラ州と同じ状況ではないか。それが支援に入った初日の印象でした」
緊急支援に入った初日、仕事を始めてからわずか数時間後に一人が亡くなった。「救うことができないことに対する怒りと虚しさが込み上げてきました」。そして、雨宮さんたちはその後の10日で10人を看取ることになった。
介護職員の中には、家族が周囲から差別を受けることを恐れ、自宅に帰ることもできず、車内で数日生活していた人もいたという。「コロナは怖いが、見捨てることはできない」。そうした思いが、過酷な勤務を強いられる一人一人を支えていた。
施設内に取り残された利用者からは、「私たちはどうなるの? 私たちは見捨てられたの? まだ死にたくない」と切実な思いを打ち明けられた。雨宮さんにできることは、入所者の手を握り「私は一緒にいます」という思いを伝えることだったという。
死をおもてなしする心
新型コロナウイルスに感染して亡くなった場合、遺族であっても故人との面会は許されず、最後の見送りができるのは医療従事者などに限られた。そのため遺族に代わり、亡くなった人たちを心から見送るのが、雨宮さんたちの大切な役割の一つとなった。5年前に亡くなった父の雨宮大朔司祭は、助産師として生だけでなく時には母子の死に向き合う雨宮さんに、次の言葉を託してくれたという。
「死産もある、流産もある、母体保護のための堕胎だってある。その時こそ、限りなく尊く、また慈しみにあふれる御手に育まれたその命の死を、心からおもてなししなければならない。その母親への神の愛の故に。生まれ出ることができなかった神の命の痛みの故に」
雨宮さんは報告の最後にこの言葉を紹介し、「この父からの教えは、死と隣り合わせのカリウアの人々と生きる中で、そして今回のクラスターの中で生きる中で、私の大きな支えとなりました。私はこれからもこの教えを信念として進んでいきたいと思います。人々の笑顔が守られるように、そして彼らと共に笑い合えるように」と結んだ。
WCRP日本委の新春学習会は「Withコロナを生きぬく慈しみの実践」をテーマに行われ、雨宮さんの他、在留ベトナム人技能実習生やベトナム人留学生を支援するNPO法人「日越ともいき支援会」代表理事で浄土宗僧侶の吉水慈豊(じほう)さんが活動を報告。共同通信編集委員・論説委員の太田昌克氏と、NPO「抱樸(ほうぼく)」理事長で牧師の奥田知志氏が基調発題を行った。