神様は「年に三度、わたしのために祭りを行わなければならない」(出エジプト記23:14)と定められました。それは、過ぎ越しの祭り(Pass over)、七週の祭り(ペンテコステ)、仮庵の祭り(スコット)です。そして最後の祭りである仮庵の祭りは1週間行われましたが、その最終日は「大いなる日」と呼ばれました。私たちは今まで、主のご計画や御心がこの3つの祭りを通して啓示されてきたことを確認してきました。そして、祭りの最後の日である「大いなる日」は、主のご計画の完成を予表しています。今日は、この日の意味について皆様と一緒に考えていきたいと思います。
だれでも渇いているなら
イエス様がまだ十字架にかかる前、ある仮庵の祭りの「大いなる日」に、人々に大声で語られたということがありました。聖書を確認してみましょう。
さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37、38)
実はイスラエルの気候と日本の気候は大きく異なります。イスラエルは地中海性気候と呼ばれる地域に属していて、冬は雨季、夏は乾季です。ですから、夏の間に雨はまったく降りません。そして長い夏の乾季が終わって、恵みの雨が降るのが、ちょうど仮庵の祭りの時期なのです。この祭りの時、エルサレムではシロアムの池から毎日水を汲んできて、雨乞いの儀式をするそうです。イエス様は、このような時期に大声で「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と言われたのです。そしてこのイエス様の言葉に呼応するように、この「大いなる日」を前後してイスラエルでは雨が降り始め、雨季が始まります。では、イエス様の語られた「生ける水の川」とは何を意味しているのでしょうか。先ほどの箇所の続きにこのような解説があります。
これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。(ヨハネ7:39)
私たちは、どんなに地上で豊かな生活を送ることができたとしても、神様との交わりがなければ、霊的には乾き切った命のない状態です。ですからイエス様は「祭りの終わりの大いなる日」に、大声で「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と言われ、終わりの日に私たちの魂の渇きを満たすために聖霊(御霊)を注いでくださると約束してくださったのです。「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」(使徒2:17)と書かれている通りです。
神の安息
特に、あなたがたがその土地の収穫をし終わった第七月の十五日には、七日間にわたる主の祭りを祝わなければならない。最初の日は全き休みの日であり、八日目も全き休みの日である。(レビ記23:39)
次の大切なポイントは、仮庵の祭りの最終日である「大いなる日」は、「全き休みの日」として定められていたということです。「神の安息」について、へブル書に詳しく書かれているので、聖書を確認していきましょう。
こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。(へブル4:1、2)
私たちは主によって救われているという確信と平安が与えられていますが、同時に主は私たちが最後まで信仰を保ち続けるように警鐘を鳴らしてくださっています。ところで、「みことばも、彼らには益になりませんでした」とありますが、これは誰のことを言っているのでしょうか? 前の章にこう書いてあります。
聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。(ヘブル3:16)
モーセに率いられてエジプトを出た多くの人のうち、約束の地に入ることができたのはヨシュアとカレブの2人だけでした。残りの人々は、不信仰の故に安息に入ることができなかったのです。そしてヨシュアに率いられて約束の地に入ったのは、イスラエルの次の世代の人々でした。その彼らも約束の地に入ってすぐに安息に入れたかというと、そうではありませんでした。そこには多くの敵がいたので、彼らは戦い続けなければならなかったのです。しかしヨシュアが主に従ったので、イスラエルは勝利に勝利を重ね、ついに戦いは終わり、地は安息を得ました。
こうしてヨシュアは、その地をことごとく取った。すべて主がモーセに告げたとおりであった。ヨシュアはこの地を、イスラエルの部族の割り当てにしたがって、相続地としてイスラエルに分け与えた。その地に戦争はやんだ。(ヨシュア記11:23)
しかしヨシュアがイスラエルの人に与えた安息は、やはり影(一時的なもの)であり、安息の本体(実物)ではありませんでした。へブル書はこのように続けています。
もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。(へブル4:8、9)
ヨシュアが与えたのは、真の安息ではなく、この地上での一時的な安息にすぎなかったのです。実際にイスラエルの民は、その後も再び戦いを続けなくてはなりませんでした。では、神様が私たちのために用意してくださっている安息とはどのようなものでしょうか? まずは創世記を読んでみましょう。
神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。(創世記2:2、3)
この箇所について、新約聖書のへブル書はこのように解説しています。
みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。というのは、神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた」と言われました。(へブル4:3、4)
創世記の話は、私たちの時間の感覚ですとすごい昔のことだと思います。そして神様は天地創造の後、安息(第7日目)を経て、再び働かれ世界を導いてくださっていると感じています。しかし聖書は「みわざは創世の初めから、もう終わっているのです」と書いています。これはどういう意味でしょうか?
神様は時間に縛られないお方であるということです。私たちは、こう考えてはいないでしょうか? 神様が天地創造の働きを終えて第7日目に休まれて後、再び人類を導くために働かれ、そして世の終わりにもう一度別の安息へ入られると。しかし、「みわざは創世の初めから、もう終わっているのです」。つまり、神様にとって安息は一つであり、創世記に書かれている安息も、世の終わりの安息も本質的には同じものなのです。そして主は、その「神の安息」の中へ私たちを招き入れてくださるのです。
大いなる日の裁き
ところで、「大いなる日」について、もう一つだけ知っておいてほしい聖書箇所があります。
また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。(ユダ1:6)
この大いなる日というのは、「自分のおるべき所を捨てた御使いたち」すなわち悪魔とかサタンとか呼ばれる者が、完全にさばかれる日であるとあります。そして、このことは私たちの安息と無関係ではありません。あなたは会社や人間関係において、嫌な思いや失敗をした後の休日に、体が重く疲れが取れないという経験をしたことはないでしょうか。人の安息にとって一番大切なのは、心の安息です。体は横になって休んでいても、心が休まらないと、私たちは本当の意味で安息することができないのです。そして私たちの心を絶えず責め立てるのが、悪魔とかサタンとか呼ばれる者です。このように書かれています。
こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。(ヨハネ黙示録12:9、10)
彼は告発者であり、日夜私たちの罪を神の御前で訴えている者なのです。もし私たちに罪がなければ、いくらサタンが告発したとしても、心が乱されることはないでしょうが、私たちはみな罪人なので、ヨブのようにサタンに罪を糾弾されると、平安を失ってしまうのです。ですから主は、私たちをご自身の安息に招き入れてくださると同時に、サタンを完全に裁いてくださるのです。それが「大いなる日」に起こることです。
おわりに
第7の月の仮庵の祭り(収穫祭)の最後の日である「大いなる日」が象徴していることとは、終わりの日に渇いた私たちの魂に聖霊が注がれること、私たちの罪を告発するサタンが完全に裁かれること、神の安息についてのことです。これは第1の月の過ぎ越しの祭りに始まる主のご計画が完成する日です。前にも書きましたが、この日は天が裂けるほどの喜びの祝祭となります。今しばらくの間、私たちは地上での労苦がありますが、やがて皆様お一人お一人は、天の収穫物として、永遠の「神の安息」へ迎え入れられるのです。最後に先ほどのへブル書をもう一度引用して終わりにしたいと思います。
こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。(へブル4:1)
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