先週私は、今がイスラエルでは第7の月で、三大祭りのうちで最後の祭りのシーズであることを話しました。この時期には、3つの特別なことが行われます。一つが先週話した、ラッパを吹き鳴らすことであり、もう一つがイスラエルの大贖罪の儀式であり、最後が仮庵の祭りです。今日は2番目の、大贖罪日について皆様と共に聖書の御言葉を確認していきたいと思います。この日はヘブル語で「ヨム・キプル」と呼ばれ、第7の月の10日に行われました。
「イスラエル人に告げて言え。第七月の第一日は、あなたがたの全き休みの日、ラッパを吹き鳴らして記念する聖なる会合である。」…ついで主はモーセに告げて仰せられた。「特にこの第七月の十日は贖罪の日、あなたがたのための聖なる会合となる。あなたがたは身を戒めて、火によるささげ物を主にささげなければならない。その日のうちは、いっさいの仕事をしてはならない。その日は贖罪の日であり、あなたがたの神、主の前で、あなたがたの贖(あがな)いがなされるからである。」(レビ記23:24〜28)
今でも敬虔なユダヤ人たちは、ラッパを吹き鳴らす日(ヨム・テルーア)から、大贖罪日(ヨム・キプル)までの間、自己点検をして罪を悔い改めます。そして大贖罪日には、人々は24時間の断食をするそうです。それでは、古代イスラエルにおいて、主はどのようなことを命じられたのでしょうか。聖書を確認していきましょう。
贖いのふた
主はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所に入って、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない。死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現れるからである。」(レビ記16:2)
シナイ山で主の臨在の中に入っていったのはモーセでしたが、大贖罪日に至聖所に入って神様の前に出たのは兄のアロンでした。それは、彼が大祭司であったからです。大祭司だけが、主の前に出て民の罪を贖うことができたのです。しかし大祭司だからといって、かってな時に至聖所に入ることは許されていませんでした。主は彼が年に1度、大贖罪日(ヨム・キプル)にだけ、至聖所に入るように定められたのです。そしてここからが興味深いのですが、大祭司は2頭のやぎを準備し、その2頭のやぎのためにくじを引いたのです。
二頭のやぎを取り、それを主の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためとする。アロンは、主のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。アザゼルのためのくじが当たったやぎは、主の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。(レビ記16:7〜10)
2頭のヤギのうち、1頭は「主のため」1頭は「アザゼルのため」とあります。「アザゼル」とは何でしょうか。それについては少し後で話すことにして、まずは「主のため」のヤギがどのようにささげられるのかを確認しましょう。
アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持って入り、…それを「贖いのふた」の上と「贖いのふた」の前に振りかける。彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。…彼は自分と、自分の家族、それにイスラエルの全集会のために贖いをする。(レビ記16:15〜17)
「主のため」のヤギは、ほふられて、その血が「贖いのふた」に振りかけられたことが大切なポイントです。贖いのふた(贖罪蓋)は「恵みの座」とも言われていますが、そこにヤギの血が振りかけられることを通して、民の罪の贖いがなされました。しかもこの血は、「祭壇の上に指で七たび振りかける」とあります。先週話したように「7」は完全数ですから、このことにより、イスラエルの民の罪は完全に赦され贖われたのです。それでは、なぜもう1頭「アザゼルのため」のヤギが用意されたのでしょうか?
アザゼル
彼は聖所と会見の天幕と祭壇との贖いをし終え、先の生きているやぎをささげる。アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎(とが)と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。(レビ記16:20〜22)
ある神学者は「アザゼル」とは、「ヤギ」と「去らせる」を合わせた言葉だと解釈します。これをある英語聖書(NIV、KJV)では「scapegoat(スケープ・ゴート)」と訳しています。しかし他の神学者は、「アザゼル」を荒野の悪霊や怪物のようなものだと説明します。新改訳聖書は、以前は前者の解釈をとり、「アザゼル(スケープ・ゴート)として荒野に放つ」と訳出していましたが、2017年度版(また英語のESVなど)では、後者の解釈をとり「荒野のアザゼルのもとへ追いやる」として、解釈を変えています(レビ記16:10)。
どちらにしても、このヤギは、イスラエルの民のすべての咎とそむきの罪をその上に負って、荒野へ追いやられました。なんだかかわいそうな気もしますが、この象徴的な祭事には、1匹のヤギの犠牲により、主がイスラエルの民の罪を遠く離され、忘れてくださるというメッセージが込められているのです。詩篇にこのような箇所があります。「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される」(詩篇103:12)
父に代わって祭司となる者
さてこれらのことは、終始一貫して主が大祭司アロンに命じられたことですが、32節では唐突に対象が変わり、一転してこのように書かれています。
油をそそがれ、その父に代わって祭司として仕えるために任命された祭司が、贖いをする。彼は亜麻布の装束、すなわち聖なる装束を着ける。彼は至聖所の贖いをする。また会見の天幕と祭壇の贖いをしなければならない。また彼は祭司たちと集会のすべての人々の贖いをしなければならない。(レビ記16:32、33)
これは、アロンに代わって、その子らが大祭司となって贖いをするということを意味していますが、新約聖書の観点から言うと、油注がれたキリストが父に代わって大祭司として罪の贖いをすると読むことができます。「律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです」(へブル7:28)と新約聖書に書かれているからです。
ではアロン(地上の大祭司)と、キリストとの違いは何でしょうか? それはまず、キリストには悪も汚れも罪もないということです。
また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。(へブル7:26、27)
アロンは大祭司でありながら、自分も罪人であったために、まず自分の罪のためにいけにえをささげなければなりませんでした。しかしキリストには、その必要がなかったのです。またアロンのささげた「ヤギ」は、神様が望まれるささげ物の影であり、実物ではありませんでした。ですから、それによって人々を完全にすることができなかったのです。こう書かれています。
律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にすることができないのです。もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはずです。ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。(へブル10:1〜4)
真のスケープ・ゴート
アロンがささげた「ヤギ」が影であるというなら、神様が望まれる真のささげ物の「実物」とは何でしょうか?
しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。(へブル9:11、12)
キリストは、私たちの大祭司となってくださっただけでなく、私たちの罪の贖いのための、犠牲のささげ物となって血を流してくださったのです。これが十字架の意味です。それではアザゼル(スケープ・ゴート)のために取り分けられた、もう1匹のヤギは何を意味しているのでしょうか? そのことに関して、ヨハネの福音書の中で大祭司カヤパが意味深なことを言っています。
しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。(ヨハネ11:49〜52)
アザゼル(スケープ・ゴート)は、人々のすべての咎とそむきと罪をその身に負って、不毛の地、荒野に放たれました。同様にキリストは、私たちすべての罪を負って、よみへ下られたのです。このことを通して、主は私たちの罪を贖ってくださっただけでなく、東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離してくださったのです。つまり2頭のヤギは、キリストの犠牲の2つの意味を私たちに教えていたのです。
今年の大贖罪日(ヨム・キプル)は、9月27日の夕方から、28日の夕方までです。私たちは、ユダヤ人の方々のように特にこの日に断食をするという習慣はありませんが、キリストが私たちの魂の大祭司であり、ご自身の血を流して私たちの罪を贖ってくださり、私たちのそむきの罪を遠く離してくださったことを心に刻むときとしましょう。キリストがそれを成してくださったのは、主が皆様一人一人を愛しているからです。
私たちの罪の問題は、軽い問題ではありません。イスラエルの人々はヨム・キプル(大贖罪日)を通して罪から解放されることを願いました。しかしかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されたのです。それは、私たちも同様です。罪から離れることは、人にはできないことです。ただ主の十字架の愛を知るとき、私たちは心から罪を悔い改め、罪から離れるようになり、主もまた私たちの罪を忘れてくださるのです。最後にもう1カ所聖書を引用して終わりにします。
もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。(へブル9:13、14)
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