神様のご計画の完成を意味する第7の月の祭りについて、2週にわたって、ヨム・テルーア(ラッパ祭)、ヨム・キプル(大贖罪日)と学んできましたが、今回は最後の大きな祭りである仮庵の祭り(スコット)について書かせていただきます。
収穫祭
ついで主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて言え。この第七月の十五日には、七日間にわたる主の仮庵の祭りが始まる。…特に、あなたがたがその土地の収穫をし終わった第七月の十五日には、七日間にわたる主の祭りを祝わなければならない。最初の日は全き休みの日であり、八日目も全き休みの日である。」(レビ記23:33、34、39)
この祭りは収穫祭の意味合いのある祭りでした。ですから、「土地の収穫をし終わった第七月の十五日」に祝うように命じられています。農業を営むということは大変な重労働です。機械がない昔はもっとそうだったでしょう。しかもいくら働いても、毎年きちんと実をならせるとは限らず、災害や凶作の年もあったでしょう。そのような中で、無事に1年のすべての収穫を終えた日というのは、大きな喜びの日であったことでしょう。そして農作物を与えてくださった神様に感謝の心をもって祝うのが、当時の祭りだったのです。それでは仮庵の祭りに、人々はどのようなことをしたのでしょうか。聖書の続きを読んでみましょう。
あなたがたは七日間、仮庵に住まなければならない。イスラエルで生まれた者はみな、仮庵に住まなければならない。これは、わたしが、エジプトの国からイスラエル人を連れ出したとき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたがたの後の世代が知るためである。わたしはあなたがたの神、主である。(レビ記23:42、43)
仮庵(仮の住まい)というのは、幕屋(テント)のことです。モーセと共にいたイスラエルの民は旅をしながら、幕屋(仮庵)暮らしをしていたのですが、彼らの後の世代の子孫たちが、主の導きと恵みを思い起こすため、年に1度先祖たちと同じ体験をするように定められたのが仮庵の祭りです。申命記にはこうあります。
荒野での守り
あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。(申命記8:2〜4)
「人はパンだけで生きるのではない」というイエス様が語られた有名な御言葉は、この聖書箇所を引用したものです。イスラエルの民は荒野の苦しみの中で、ただ主にだけ頼りました。そして主は彼らを守られました。彼らの「着物はすり切れず、その足は、はれなかった」と書かれている通りです。この時、イスラエルの民の労苦は多かったのですが、ある意味では幸せな時期でした。なぜなら彼らは毎日のように主の奇跡を見、主を体験し、主の臨在の中にいたからです。主は毎日マナを与えて彼らを養い、雲の柱と火の柱によって彼らを導かれました。そこには彼らの心を主から離すものは何一つありませんでした。そして、やがて彼らは約束の地に入っていきます。約束の地についてはこのように描写されています。
そこは、水の流れと泉があり、谷間と山を流れ出た深い淵のある地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜の地。そこは、あなたが十分に食物を食べ、何一つ足りないもののない地…(申命記8:7〜9)
これはまさに天国の型であるわけですが、イスラエルの民がこのような素晴らしい地に入ったときに、主を忘れることがないように定められたのが、仮庵の祭りだったのです。続けてこのように書かれています。
気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。(申命記8:11〜14)
人は、荒野での生活のように、自分の力ではどうすることもできないほどの労苦、悲しみ、貧しさ、病の中にあるときは、神様により頼みます。しかし金銀や所有物が増し、健康で何の問題もなく、りっぱな家に住むようになると、いとも簡単に自分の力を誇り、高ぶり、そして主を忘れ、信仰から離れてしまいます。実際にイスラエルはこの直後から、長い間仮庵の祭りを祝うことを忘れてしまいました。それが再び回復したのはネヘミヤの時代です。
祭りの回復
こうして彼らは、主がモーセを通して命じた律法に、イスラエル人は第七の月の祭りの間、仮庵の中に住まなければならない、と書かれているのを見つけ出した。…そこで、民は出て行って…自分たちのために仮庵を作った。捕囚から帰って来た全集団は、仮庵を作り、その仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの時代から今日まで、イスラエル人はこのようにしていなかったので、それは非常に大きな喜びであった。(ネヘミヤ8:14〜17)
モーセのすぐ後のヨシュアの時代以降、ネヘミヤの時代まではおよそ千年の隔たりがあります。ですからイスラエルは非常に長い間、仮庵の祭りを忘れていたことになります。その間、彼らの信仰は主から離れ、国は南北に分断し、北イスラエルはアッシリヤに滅ぼされ、南ユダもバビロンに捕囚にされました。しかし、主は彼らを見捨てることはありませんでした。捕囚にされた民は、主の恵みによってイスラエルに帰還することを許されたのです。そして捕囚から帰ってきた彼らは第7の月に集まり、実に千年ぶりに仮庵の祭りを回復したのです。
ところで、彼らは「主がモーセを通して命じた律法に」仮庵の祭りについての記述を見いだしたとありますが、律法(トーラー)について、新約聖書はこう語っています。「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はないのです…」(ヘブル10:1)。前回も引用した聖書箇所ですが、律法に書かれていることは、後に来る素晴らしいものの影だとあります。つまりは仮庵の祭りも影であり、実物ではありません。では、この祭りは私たちに何を教えているのでしょうか?
地上の幕屋
それは、イスラエルの民が約束の地に入るまで、荒野で幕屋(仮庵)に住んで生活したように、私たちの地上生涯もまた、天の御国へ行く旅の途上であるということです。彼らは、幕屋(仮庵)に住んでいましたが、私たちは肉体という幕屋(仮の住まい)に住んでいるのです。使徒ペテロはこのように書いています。
私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。(2ペテロ1:13、14)
使徒ペテロは、自分の体のことを「地上の幕屋」と呼んでいます。そして自分の死のことを「幕屋を脱ぎ捨てる」こととしています。ある人たちは肉体を「私」そのものだと考えます。しかし、遅かれ早かれ、私たちはこの体から離れることになります。私も40を過ぎてから、あちらこちら痛かったり、昔のようには早く走れなかったりして、体の衰えを感じています。そしていつかは死ななければなりません。しかし感謝なことに、主は天上のからだを準備してくださいます。聖書を確認してみましょう。
また、天上のからだもあり、地上のからだもあり、天上のからだの栄光と地上のからだの栄光とは異なっており、…血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。…朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。(1コリント15:40、44、53)
天の祭り
使徒ペテロは、「地上の幕屋(体)を脱ぎ捨てるのが間近に迫っている」と言いましたが、使徒パウロは、主が御霊(天上)の体、朽ちない体を着せてくださるということを語っています。つまり、イスラエルの民が約束の地に入った後に、荒野での天幕生活を思い起こして主の恵みを覚えることが「仮庵の祭り」であったように、私たちはやがて地上での苦難を終えて、天の御国で、地上での主の恵みに感謝し、主と共に永遠の祭りをするようになるのです。これこそが「影」ではない、仮庵の祭りの「実物」なのです。
バビロン捕囚から帰ってきたイスラエルの民が、自分たちの捕囚の苦しみや、祖先の荒野での苦難を思い起こし、同時に主の導きと恵みを思い起こしたように、私たちも、かの日には天において、地上での労苦と主の恵みを思い起こしながら、主に感謝の祭りをささげるようになるのです。それが第7の月の最後の祭りの意味なのです。
今年1年、主の祭りについて書いてきましたが、いよいよ最後の祭りである仮庵の祭りが、本日の夕方から始まります。私たちは、仮庵の祭りに際して、天の御国に対する希望を新たにしましょう。とは言いましても、私たちは天の祭りにおいて「小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろの地、オリーブ油と蜜」などの収穫物を喜ぶのではありません。それらよりもはるかに優れたもの、祭りの中心である主イエス・キリストに相まみえることを喜ぶことになるのです。それについては次回にまた書かせていただきます。
最後にもうひとつ付け加えさせていただきます。私たちはまだしばらくの間、残された時を仮庵である肉体を着て、この地に足をつけて歩んでいきます。イスラエルの民が荒野で多くの労苦を経験したように、私たちも多くの労苦や人に言えない痛みを経験するかもしれません。しかし、主は荒野の中でイスラエルの民を守られ、彼らの着物はすり切れず、その足は、はれませんでした。同様に私たちは労苦のただ中においても、主の加護と恵みを体験するのです。
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