先週、私は仮庵の祭りについて以下のことを語りました。
- 仮庵の祭りが収穫祭であること
- 仮庵とは古代イスラエルの人々が荒野で旅のあいだ住まいとしていた幕屋のことであること
- 仮庵の祭りとは荒野で主の加護と恵みを受けたことを覚えるために定められたこと
- 仮庵の祭りは長いあいだ忘れられ、ネヘミヤの時代に回復したこと
- 新約聖書の視点によると、幕屋(仮庵)とは肉体のことであること(2ペテロ1:13〜)
- 荒野で幕屋(仮庵)に住み、約束の地を目指したのは、私たちの信仰の旅路を象徴していること
- 天にて、地での苦難と主の加護と恵みを覚え、(実物の)仮庵の祭りを祝うことになること
さて、私たちはまだしばらくの間残された時を、仮庵である肉体の中で、この地に足をつけてしっかりと歩んでいかなければなりません。天に希望があるからといって、この地での歩みをないがしろにすべきではありません。では私たちは、地上にいる間、仮庵の祭りをどのように考えるべきなのでしょうか。使徒ペテロはこのようにも言っています。
旅人であり寄留者
あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。(1ペテロ2:10、11)
仮庵の祭りは、約束の地に入った後に、荒野での生活を振り返りながら感謝する祭りですが、まだ約束の地(天の御国)に入っていない今の私たちは、仮庵の祭りを通して、自分たちが「旅人であり寄留者である」ことを思い起こすのです。旧約の信仰者たちは、皆そのような心構えを持っていました。
これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。(ヘブル11:13)
ですから私たちは、この地上でたとえ成功しても、永遠に栄えるわけではありませんし、もしも悲しみや苦しみの中にいるとしても、それもまた長くは続きません。では私たちは、この地上にいる間、何をすればよいのでしょうか。またどのような心構えで歩むべきなのでしょうか。その見本を見せてくださるのは、私たちの主キリスト・イエスです。
インカネーション(受肉)
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14)
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」というのは、原語に詳しい方々によると、キリストが仮庵(肉体)をまとい、この地に住んでくださったことを意味するそうです。この「住まわれた(Skēnoo)」という単語を、原語(ギリシャ語)の辞書(E-Sword)で引くと以下のように出てきます。
E-Sword: Σκηνόω (Skēnoo): to tent or encamp, that is, (figuratively) to occupy (as a mansion) or (specifically) to reside (as God did in the Tabernacle of old, a symbol of protection and communion): - dwell.
「to tent」とか「encamp」などと英語で訳出されていますが、子なる神(ことば)であるキリストが肉体という幕屋(仮庵 / tent)をまとわれた、私たちの間に宿営(幕営)されたという意味です。キリストは神の子、いと高き方であり、何の不足もない方でした。その方が、弱い肉体(幕屋)をまとわれ、地上においては枕をする所もないほど労苦されました(ルカ9:58)。言い換えれば、キリストこそが仮庵に住まわれた方だったのです。ですから私たちが、何をなし、どのような心構えで歩むべきかは明らかです。主であるキリストの軌跡に倣い、彼の心を自分の心とすればよいのです。
主の十字架と愛
ではなぜ、父なる神はキリストに「からだ(幕屋・仮庵)」を与え、この地に人として遣わされたのでしょうか。そしてなぜ「キリストは、神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられた」(ピリピ2:6、7)のでしょうか。それは先々週にヨム・キプル(大贖罪日)について書かせていただいたときにも触れましたが、主が私と皆様の罪の問題を解決してくださるためでありました。雄牛とやぎの血によって罪が除かれることはなかったからです。これらのことに関しては、へブル書全体を読んでいただきたいのですが、以下に一部を引用します。
雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。」(へブル10:4、5)
このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。(ヘブル10:10)
子なる神であるキリストは天において何の不自由もありませんでしたが、そのままではできないことがありました。それこそが人類の罪を贖(あがな)うために、血を流して犠牲となられることでした。そのためにキリストは「からだ(幕屋・仮庵)」をまとい、この地に来てくださったのです。そしてそれは、皆様一人一人を愛する神の愛の故になされたことでした。
婚約時代の愛
この主の愛を知った人々は、この地上で残された期間、主の愛に応える歩みをするのです。エレミヤ書にこのような箇所があります。
さあ、行って、主はこう仰せられると言って、エルサレムの人々の耳に呼ばわれ。わたしは、あなたの若かったころの誠実、婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地でのわたしへの従順を覚えている。(エレミヤ書2:2)
イスラエルは、荒野にいた間、最も主を愛していました。彼らにとって、頼れる方は主しかいなかったのです。主もまたイスラエルとの関係を喜ばれ「わたしは、あなたの若かったころの誠実、婚約時代の愛、荒野の種も蒔かれていない地でのわたしへの従順を覚えている」と言われました。しかしながら、イスラエルが立派な板張りの家に住むようになり、自分の力で生きられるようになると、彼らの主に対する愛は冷めていき、仮庵の祭りを祝うことも長い間忘れ去られてしまいました。
私たちは、この世が目に見えるところは華やかであっても、霊的には荒野のような場所であること、そして自分たちが、仮庵に住む「旅人であり寄留者である」ということを覚えましょう。もしも今、苦しみ、悩み、悲しみ、病があるなら、そのことを通してますます主に近づきましょう。そして主にだけ頼り、若かったころの誠実、婚約時代の愛、荒野の地での主への従順を回復しましょう。そして主を愛するというのは、具体的には、目に見える隣人を愛していくということです。主の愛を受け、そしてその愛を実践していくことこそが、主が十字架を通して私たちに見せてくださった道なのです。
農夫なる父
仮庵の祭りは収穫祭であると言いましたが、父なる神の立場に立つと、皆様お一人お一人を天に迎え入れることこそが収穫祭である仮庵の祭りの最終的なご計画となります。イエス様は「わたしの父は農夫です」(ヨハネ15:1)と言われましたが、父なる神は、農夫が収穫物を喜ぶように、人々が救われて天に来ることを喜んでくださるのです。そのために父は私たちの未熟さを忍耐され、成長して良い実となることを願ってくださっています。
天において、比喩や影ではない実物の主の祭りを祝うときに、後悔することのない歩みをしましょう。やがて私たちは、敵も味方もなくすべての人と共に、天が裂けるほどの非常な喜びをもって、主の祭りを祝うことになるのですから。次週は「祭りの終わりの大いなる日」について書かせていただきます。
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