2020年は、米国にとって4年に一度の「お祭り」が催されるはずだった。人々は「USA!USA!」とシュプレヒコールを上げ、国旗を振りかざし、隣にいる仲間と肩を組み、そして自分たちが支持する候補者を羨望の眼差しで見つめる――そんな光景が各メディアによって全世界へ配信されるはずだった。
だが現実の「2020年」は、それとはまったく異なる様相を呈している。新型コロナウイルスのニュースが数カ月間、文字通り洪水のようにあふれ、やっと各国で非常事態宣言が解除され始めたころ、メディアに映し出されるようになったのは、共和党候補のドナルド・トランプ大統領、民主党候補のジョー・バイデン元副大統領の顔ではなく、アスファルトに組み伏せられたジョージ・フロイド氏の姿だった。その後、各地で発生する暴動の様子、さらに頻発する白人警官による黒人への過剰ともいえる取り締まりのニュースが伝えられ、今なお収束の気配がない。
一体、米国はどうしてしまったのだろうか。人気ラッパーのカニエ・ウェスト氏が大統領選に出馬する、という本当かウソか分からないようなニュースに、少し苦笑させられるが、基本的に米国の現状は、まさに迷走に迷走を重ねているといわざるを得ないだろう。
歴史神学という分野を追究していると、どうしても目の前の出来事を額面通り受け取れず、疑いの目で見てしまうことがある。「歴史的判断はまだ早計」と考えてしまうからだ。さまざまな書物を見ると、やっとビル・クリントン大統領の時代(1993~2001年)辺りまでが総括され始めていると感じられるようになってきた。9・11は来年で20周年となる。そろそろその辺りが・・・とやっていると、いつしか目の前の出来事がかすれていってしまう。しかし、多くの人にとって「今ここで」起こっていることこそ、その理由や原因を知りたいのであって、10年以上前の出来事を今から云々するというのは、ある種「後出しジャンケン」のようで、気後れしないとは言い切れない。
では今、私たちは太平洋の向こう側の「遠くて近い隣人」である米国をどのように捉えたらよいのだろうか。いろんな回答があるだろうが、今回私が提示したいのは、米国研究者の間では定番となっている短い2つのフレーズである。ある種、それらは「大喜利」のように米国の本質について正鵠(せいこく)を射ているといえよう。
1.「アメリカは、未完成の実験国家である」
これは、慶応義塾大学法学部教授の鈴木透氏が、著書『実験国家アメリカの履歴書(第2版)社会・文化・歴史にみる統合と多元化の軌跡』で述べている言葉である。米国は、その建国の歴史からして壮大な「実験」であったし、その後も国を挙げてさまざまな取り組みを行っている。例えば、憲法を修正してまで国家プロジェクトとしてアルコール類の製造販売を禁じたり(禁酒法、1919~33年)、頼まれてもいないのに「世界の警察」と自称して他国の紛争に介入し、敵対勢力とガチンコの戦争に突入したりする。その気質は今も変わるところがない。
今回の人種の問題にしても、他国では奴隷制が廃止されることで、ある程度は人種による対立がそれほど問題として顕在化してこないのに、米国だけは世界最先進国でありながら、数世紀にわたる宿痾(しゅくあ)としていまだに引きずり、解決の見通しも立っていない。これも一種の「実験」と見なすなら、これほど前代未聞、未曽有の国家的実験は他に類を見ないだろう。
2.「アメリカは共通の過去を持っていないために、共通の未来についての意志を欠くと、昔の個別の民族的アイデンティティーへと逆行してしまう」
これは、ドイツの神学者ユンゲル・モルトマンの言葉である。そしてこれに続けて言葉を足しているのが、森孝一氏(神戸女学院前院長)である。
「共通の過去」を持たないアメリカを統合するものは、「共通の未来」としての理念、理想、信条しかない。
これは、学生時代に「耳にタコ」ができるくらい聞かされていた言葉である。あれから15年以上がたっているが、その言葉の通りに現実が動いている様を見ると、これこそ「米国の勘所」といってもいいだろう。
米国は、史上初めて(壮大な実験として)「今から新しい国家を造ろう」と決意して生み出されている。しかも単一民族、人種で構成されているわけではなく、多種多様な人々が混然一体となって生活するところから始まっている。つまり、さまざまな出自の移民たちによって国が構成されているのである。だから、彼らが一つにまとまるために必要なアイデンティティーは、過去には存在しない。それは常に未来になければならないのだ。
モルトマン、そして森氏の言葉を踏まえて、現在の人種をめぐるさまざまな対立、暴動、デモなどを見るとき、そこに今まで見過ごされてきた「確かな変化」をつかみ取ることができる。それは現在の米国には、モルトマンや森氏が指摘するような「共通の未来」が、はっきりとした形で提示されなくなっているということだ。それでも明日に向かって生きなければならない彼らは、その一歩を踏み出すことを後押しするアイデンティティーを、各々の過去(出自となる民族、人種など)に求め出しているのだろう。
そう考えると、一連の対立がなぜ引き起こされたのかということよりも、このような事態が頻発することの意味を問う方が、蓋然性の高い視点を得られるのではないか。
今のアメリカに思う。彼らは共通の未来を失いつつある。それは、キリスト教で国家をまとめようという建国以来の理想である。そして「キリスト教国アメリカ」であってほしいという願いを「共通の未来」として掲げてきたWASPたちの嘆きが、暴力という形で顕在化し、それに対抗する形で暴動やデモが頻発していると捉えることができよう。
米国の実験は、もちろんいまだ完成は程遠い。そして、国家を挙げて岐路に差し掛かっているのかもしれない。
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