人はそれぞれに生きて、何事もなく死んでいく。神を恐れる人もそうでない人も変わりがない。ならば、神を恐れる必要はない。したいようにして死んでいけばいいではないか。
神は、“恐るべき方”というよりも“畏るべき方”である、といえます。“恐れる”とは恐ろしいという感情についての判断ですが、“畏れる”とは事情に基づく態度であって、正しく敬う、とか、正しく重んじる、ということです。逆に言えば、軽んじない、狎(な)れない(俗語で言えば)なめない、即ち、甘く見たり、バカにしたりしないということです。人は神を敬い、畏れるべきです。(“畏れる”という語が日本語から消えつつあるのは甚だ残念なことです。)
その理由を挙げてみますと、
1)神はあなたの造り主であり、また、いのちを支えている方だからです。神はあなたのすべてを造り、親が子のためにあらゆる配慮をし尽くすように、食べ物・着るもの・住む所・能力・健康・思考力・環境など生きるために必要なすべてをきちんと用意してくださっています。何よりも、これからの生き方によっては天の御国(天国)で永遠のいのちを得られるよう、約束し、用意してくださっています。ですから、人はこの神を敬い、大切に思い、感謝すべきです。
2)神は全知の方です。抽象的で概念だけの存在でなく、世界と人間一人一人をよく見ておられます。人が隠れてした悪事も、神の目を逃れるものはありません。地球の裏側でしたことも、心の奥深いところで考えたこともご存じです。人の目はごまかせても、神の目はごまかせません。また、人は自分の過去の罪は容易に忘れるものですが、神はきちんと記録しておられるのです。
3)このように見たこと・記録したことに基づき、神は人にその責任を問います。神は何もしない神ではありません。一人一人の全人生を決算し、評価するのです。つまり、裁くのです。時々は生きている間に裁きますが、大部分は死んでから(つまり、その全人生を見てから)人を裁かれるのです。死んだらすべて忘れ去られるのではありません。死んでからが大変なんです。ですから、生きているうちにその対策を講じておくことが何よりも大切なのです。神を侮ってはなりません。神は何もしないだろうと甘く考えてはいけません。神は一人一人をその全人生を検証して裁かれるのです。そのような神を畏れることが大事です。「見よ、神の慈愛と峻厳(しゅんげん)を」(ローマ11:22)。峻厳に罪を問われることになるのです。
4)しかし、峻厳だけでなく、慈愛の方でもあります。人のすべての罪を赦(ゆる)すために、道を備えてくださいました。キリストが来られて、すべての人の罪のため、身代わりの罰を受けてくださったのです。何とかたじけないことでしょうか。このキリストを信じる者は、裁かれて滅びることがなくなりました。天国へ行けるのです。
せっかくの神の愛です。裁かれても大丈夫なように、キリストを信じて罪の赦しを得ておきましょう。そして、神の子とされ、永遠のいのちを獲得しましょう。
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