タイトルから想像するに、ヨーロッパ系の文芸作品のようである。しかし、実際に観てみると、スマホやSNS全盛期の現代が舞台の人間ドラマである。フランスでは一般的らしいが、駅の共有スペースに「誰が弾いてもいいピアノ」が置かれている。そこにおよそピアノを弾く風貌とは思えない青年マチューがおもむろに座る。そして弾き始めると、一瞬にして世界が変わる。クラシックの難しい楽曲を一心不乱に弾き続ける主人公の青年。その彼の演奏をじっと見つめる初老の男ピエール。この二人が音楽をめぐって織りなすドラマが本作である。
マチューは、およそ音楽をたしなむような環境に育っていなかった。シングルマザーに育てられ、日々の生活にきゅうきゅうとしなければならなかった。近隣の老人からピアノの手ほどきを受けてはいたが、自分がどれくらいの腕前なのか、そもそも今自分が弾いている楽曲が何であるのかすら、おぼろげにしか理解できていない。その彼にピアノ演奏の指標を与えるのが、パリの名門音楽院コンセルヴァトワール(パリ国立高等音楽院)でディレクターを務めるピエールだった。彼は、駅の構内で偶然出会ったマチューのピアノに衝撃を受ける。そして彼に音楽院への入学を勧めるのだった。
だが、マチュー本人は自分の価値が分かっていない。友人たちと他人の家に入り込み、盗みをする毎日を繰り返していた。結果、警察に捕まってしまい、公益奉仕を言い付けられてしまう。このことを聞いたピエールは、積極的にマチューの公益奉仕を手助けし、音楽院内の清掃を命じるとともに、ピアノのレッスンを受けることを強要するのだった。ピエールには焦りがあった。それは、ここ3年余り、指導している音楽院からピアノのコンテストで優勝者が出ていないのだ。新聞は彼の手腕に疑義を投げ掛ける記事を掲載し、ひいては音楽院そのものの存続にも言及し始めていた。何とかしなければならない。そんな中、マチューのピアノに出くわしたのだった。
物語はここから「ピアノ版スポ根ドラマ」の様相を呈していく。一流の指導者からレッスンを受けるマチュー。コンテストの価値を理解できないまま、ダイヤの原石はひたすら音楽に打ち込むことになる。音楽院の教授たちは、マチューだけを特別扱いするピエールに批判的な発言をするようになっていく。ついにピエールは「私の進退をかけてマチューを推す!」と言い切ってしまう。
だが、「やらされている」レッスンには限界が訪れる。ピアノの弾き過ぎで腱鞘炎(けんしょうえん)になったマチューは、ピエールの妻から「あなたは主人に利用されている」と聞かされ、失意に陥ってしまう。ピエール夫妻には、15歳で亡くなってしまった息子がいたのだ。それ以来、音楽にのめり込む夫に対し、彼女は苦々しい思いを抱いていたのである。
この「利用されている」という言葉が、マチューの心を砕いてしまう。彼が貧困の中でリアリティーを伴ってつかんだことは、「自分は本来音楽なんてする人間ではない」ということだった。しょせん自分は他人から搾取され、利用され、そして捨てられるのだ、と根源的に思い込んでいたのである。
ここに至って、彼はどうして自分が音楽をやっているのか、その究極的な問の前にたたずんでしまう。そうなってしまうと練習にも身が入らない。レッスンを休みがちになり、指導を受けていてもそれに従えなくなっていく。そしてついに彼は姿を消してしまう。
果たしてマチューはコンテストに出場するのか。そして優勝できるのか。仮に優勝できたとして、それはピエールの妻が言うように「利用されただけ」なのか。いろいろな思いが交錯する中、ついにコンテスト当日を迎えるのだった。
映画の構成としては、音楽映画の定番中の定番、王道なストーリー展開である。意地悪い見方をするなら、「やっぱり才能のある奴は、何をやってもできる」という鼻持ちならない物語となる。しかし本作は、そこにさまざまな人間の「後悔」が付きまとうことで、単なる王道物語とは異なる色合いを醸し出している。その点がとても興味深い。
マチューは、自己を否定することでしか生きられなかった人生に対し、後悔の念を抱きながらも納得して日々を過ごさなければならない、という相矛盾した感情を持て余していた。そのわだかまりを、ピアノを弾くことで何とか解消しようと躍起になる。一方、ピエールは、息子を亡くした後悔を感じながらも、マチューにすべてを託す決断をし、退路を断つ。
登場場面は少ないが、マチューにレッスンを施す「女伯爵」ことエリザベスも、かつてコンテストに参加しながらも、その楽曲に魂を込められなかったことに後悔していた。
各々が抱く「後悔」が、マチューのコンテストによって一気に顕在化し、また昇華されることになる。ここに物語のリアリティーがある。
本作を通して痛感するのは、人はこれほどまでに「自身を知らない」ということだ。言い換えるなら、自分が何者であるかというアイデンティティーが失われてしまうと、どれほど人がうらやむ才能を持っていても、それは本人にとっては「無」でしかないということだろう。だからこそ、人が「己を知る」ことは命の原動力となるのだ。
聖書の中で、神は人間を「御自分にかたどって」創造されている(創世記1:17~28)。このことを私たちは深く知るべきである。自分の環境や置かれている状況にとかく影響されやすいのが私たちだ。しかし、その本質は後天的なものではなく、アプリオリに神から与えられた「神の像」が備えられているのである。そう思って世界を見るのと、世界から得た情報で自分を見つめるのとでは、天と地ほどの差が生まれてしまう。
本作の邦題「パリに見出されたピアニスト」は、なかなか秀逸である。本来なら「ピエールに見出されたマチュー」となるところだが、「パリ」が見いだした、すなわち「世の中」が一流ピアニストを見いだしたのである。この方式を用いるなら、「マチューの神から授けられた才能を、神ご自身が世界を通して明らかにされた」という解釈も成り立つのではないだろうか。
そして同じことが、私たち一人一人にもいえるはずである。そう思って鑑賞するなら、本作は私たちに「肯定的な自己」を示してくれる、まさに「福音」となる一作であろう。
映画「パリに見出されたピアニスト」は9月27日(金)から、ヒューマントラスシネ有楽町、新宿シネマカリテ、YEBISU GARDEN CINEMA ほかで全国ロードショーされる。
■ 映画「パリに見出されたピアニスト」予告編
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