原題は「カペナウム」。アラビア語では「ナフーム村」という意味であるが、監督のナディーン・ラバキー女史はフランス語圏であるため、これをフランス語の意味で取るなら、新約聖書の数々のエピソードに由来して、「混沌・修羅場」となるという。映画のテーマとしては後者の意味が正しいだろう。
第71回カンヌ国際映画祭でコンペティション部門審査員賞、エキュメニカル審査員賞をダブル受賞し、第76回ゴールデン・グローブ賞と第91回アカデミー賞では、外国語映画賞にノミネートされたレバノン映画である。
監督のラバキー女史が3年半の綿密なリサーチを行い、完成させたということもすごいが、最も着目すべきはスクリーンの中で演じている俳優たちである。彼らはほとんど演技経験のないレバノン在住の人々である。
主な登場人物は、親から不法な仕事を教え込まれ、幼い頃から犯罪まがいの商売に手を染めてきた子どもたちや、エチオピア系難民で不法滞在によって警察に拘束されるシングルマザー、その彼女を取り巻く怪しげな大人たちである。こういったキャラをプロの俳優が演じるのではなく、実際に数年前まで出生証明書がなく、親からも見捨てられてストリートチルドレンとして生きてきた少年や、現在も拘束される可能性のある難民出身の女性たちが演じているというのだから驚きだ。わずか3、4歳の子どもに至るまで、彼らは自身の「日常茶飯事」をそのまま演じているのである。当然、交わされる会話や心情の吐露にも、自身の体験に基づくリアリティーが重ねられることになる。
舞台はレバノンの架空のスラム街。主人公のゼイン少年は、自分の誕生日も年齢も知らない。なぜなら両親が公的機関に提出する出生届が存在しないからだ。提出にかかる費用が出せないほどの貧困であったため、彼らは「大体12歳くらい」とはぐらかさなければならない。
戸籍がないということは、国家から庇護を受けることができないし、教育を受ける機会も奪われてしまう。ゼイン少年を演じているゼイン・アル・ラフィーア君は、一見すると、6、7歳に見える。それは彼自身が「存在のない子ども」として生まれ、栄養失調で体の成長が止まってしまっていたからだ。そんな同じような境遇を持つ彼が演じるゼイン少年は、映画冒頭で裁判を起こす。裁判官を前に、彼はこう述べる。
「僕は、両親を訴えます」。すると裁判官は問う。「一体、何の罪で?」 これに対しゼイン少年は衝撃的な一言を発する。「僕を生んだ罪で! 育てられないなら子どもを産むな」
ラバキー女史は、各国のインタビュアーから「本作はドキュメンタリー映画か」と尋ねられたという。しかし彼女はこの物語を「あくまでもフィクション」と主張する。その真意は何か。彼女はこう語る。
「子どもたちは生まれてくることを自ら選べなかったわけだから、最低限の権利、せめて愛される権利を親に要求できるべきだと思う。ゼインが両親を告訴するという行動は、それを象徴する行動だった」
つまり、約2時間かけて描く彼らの悲惨な「日常」に対し、映画監督としてというより、レバノンという国を愛する一人の女性として、一石を投じたということだろう。虐げられている彼ら(戸籍のない子どもたち)では絶対になし得ないフィクショナルな行動(両親を訴えること)をあえて挿入することで、観客の心にリアリティーを惹起(じゃっき)させる逆説的な手法を試みたということだ。そしてこの手法は、観る側の心に強烈な爪痕を残すことに成功している。
それは本作のラストシーンにある。この原稿を書きながらも、あのシーンを思い起こそうとするだけで涙を禁じ得ない。しかしその涙の質はいまだに思案中であり、答えが出ない。おそらくレバノンのみならず、世界中に「存在のない子どもたち」は存在しているのだろう。その彼らの悲痛な叫び、奥底に押し込まれた感情、そういったものを一気にあのラストシーンを通して浴びせられる私たち「裕福な観客」は、これを消化するのに何日、いや、何年かかることだろう。そんな大きな宿題を与えられた感がある。己の無知を思い知らされたという「衝撃」は、私の心を激しく打ち、そして涙がこぼれ落ちるのを止めることができない。
冒頭で述べたように、本作の原題は「カペナウム」である。聖書の中に登場する一地方の名前である。確かにイエスをして、カペナウムは「混沌と修羅場」となることを預言されている。
カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。(マタイ11:23)
イエスから「地獄行き」を宣告された町、それがカペナウムである。本作を観終わってこのことを知ると、言い得て妙な気がする。
しかし一方で、同じイエスがこうも語っている。
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。(ヨハネ14:18~19)
レバノンという国が、キリスト教とイスラム教の対立により、多くの難民を生んでしまったことは周知のことである。しかし本作はそのような「宗教的立場」を越えた「イエスの言葉」に耳を傾けさせるのに有用である。
「あなたを捨てて孤児とはしない」。これは出生証明書や戸籍という社会的次元を超えて、キリスト者が今生かされていることの意味、「使命」を問う言葉である。
本作の監督があえてフィクションを挿入することで、その「物語」の背景にあるリアリティーを私たちの前に提示したように、イエスの言葉は、世界三大宗教となってしまった「キリスト教」という宗教の枠を超えて、私たちの心に響くものとなるべきである。
本作を観る前と後とでは、まったく世界が異なって見えてしまう。そんな思いをキリスト者に与える「衝撃の一作」である。
7月20日(土)より、シネスイッチ銀座、ヒューマントラストシネマ渋谷、新宿武蔵野館ほかロードショー。
■ 映画「存在のない子供たち」予告編
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