出会い
僕と進藤先生との最初の出会いは、JTJ神学校の入学式だった。「出会い」とは言っても、言葉を交わしたわけではなく、すごい目つきの鋭い人が後ろの方に座っていて、なんとも言えないオーラを放っていたのを今でも覚えている。その後、教室で顔を合わせることになったのだけど、何となく声を掛けそびれているうちに、僕の持病が悪化して、教室にはあまり通えず「通信生」となり、結局神学生時代は、そこまで親睦を深められなかった気がする。しかしここ最近彼が、沖縄に来たことをきっかけに会うようになり、とても良い交わりの時を与えられ、今回横浜に帰省したときに彼と再会し、新刊の書評を書く運びとなった。
面白い
この本の特徴は何と言っても読みやすくて面白いことだろう。キリスト教の本というと、お堅い本をイメージしがちだが、「お堅い」とは真逆にあるのがこの本だ。文体からして面白い。普通本を書くときには、「です・ます」調か「である」調で、などと言われるのだが、「思っちゃう」とか「言われてるのよ」などのように、話し言葉そのままで書かれているし、「ウルトラC」「じゃじゃーん」のような言葉とか、「クエスチョンマークがピュッって」のような効果音まで自由勝手に使われている。さらには、イブと悪魔の寸劇みたいなことまで始まり、「え、本当にそんなの言ったんですか?」「いや、これを食べるとね、神様みたいになれるんだよ」などと悪魔の言葉を進藤節にアレンジして話を進めたりするので、読者を全く飽きさせない。
それというのも進藤さんが、聖書の面白みに誰よりも気付いているからだろう。僕は、彼が沖縄に来たときに、「毎週、何回も集会をしているけど、メッセージの内容が枯渇することはないの」と聞いたことがある。その時彼は「毎日聖書を読んでいるから、そんなことは一回もない」と言っていた。「聖書は永遠の命に関する真摯(しんし)なものであると同時に面白い」。それが、進藤さんがこの本を通して、人々に知ってほしいことだと思う。
聖書知識
では単に面白いだけの入門書かと言えば、全然そんなことはなくて、聖書知識や理解がいちいち深くて広い。何年も教会に通っている人でも、教えられることがたくさんあるはずだ。実は牧師になると、いろいろな雑務が多くて、聖書や神学的な学びに時間が取れないということは意外と多い。しかしこの本を読む限り、神学校を卒業してからも、進藤さんがずっと学び続けて積み重ねてきたのだなということがよく分かる。もちろん中には、自分の理解と違うという箇所もあるかもしれないが、それらも含めて、既に聖書をある程度知っている方々にとっても、もう一度聖書を学び直す良い機会になると思う。そして、聖書をまだ読んだことのないという人にとっては、最良の入門書となるだろう。
人生経験
そして進藤さんのメッセージに説得力があるのは、それが単なる知識ではないからだ。彼はヤクザとして、薬物中毒、抗争、離婚、愛する家族の死など実に波乱万丈な人生経験をしてきた。そのような中で、彼は人の弱さや、罪深さ、そして心の孤独や痛みを知った。だからこそ彼には、イエス様が罪人を救うために来たという福音のメッセージが、とてもリアルに大切なこととして響いたのだ。単なる机上の知識でない、彼の経験に裏打ちされたメッセージは、多くの人に届き、収監されている人々にも届いているとのことだ。
洞察力
知識と経験が豊かになると、人は「洞察力」を持つようになると僕は思っているのだけれど、この本の中にはハッとさせられる内容が多い。例えばこのようなことが書かれている。
神にしか頼れない事は幸い。何故なら人は人に頼れるときはすぐに人に頼りたくなるスケベ根性が出てきちゃう。そうすると相手にも「俺をアテにしてるな」ってのがすぐに伝わり、人間関係が壊れてしまう。
このような内容は、人生経験からにじみ出ている言葉なので、深みがある。そして何と言っても聖書を基に、神様の心を語っているので、単なる洞察力ではなくて、霊的な洞察力がある。たとえば以下のような内容が書かれていて、個人的にいろいろと教えられた。
満員電車の中でスマホを見るような現代社会にあっても、しばし目を瞑ることで、自分の奥まった部屋に入り主と二人きりになれる。
神様が人を神の似姿に作り、一人一人を愛しているのだから、人をけなすのは神をけなすのと同じで、人を褒めるのは神を褒めるのと同じだ。
人への愛と神の愛
そして彼の人生、そしてこの本全体を貫いているのは、神の愛であり、人への愛だ。極道が牧師になったというと、インターネットの掲示板から、実際の身近にいる人々に至るまで、いろいろなことを言ってくる人がいる。いわれのない誹謗中傷や嫌がらせなどだ。彼はとても明るく、パワフルに見えるけれど、内面は非常に繊細な人だ。だからこのようなことに傷つかないわけはない。けれども彼は「ある人を好きになれないとしても、愛することはできる。それは感情ではなく、決断だからだ」と語る。
そして、人を決して裁かないということの重要性を強調している。裁いていいのは魚だけ(田崎敏明牧師から引用)とのことだ。この決断の故に、彼は誹謗してきた人のために祈り、後には、その人が謝罪をしに来るようになり、その人の紹介でこの本の編集者に出会い、この本が刊行されたということだ。つまり、この本自体が、愛の決断の結果として生まれたということだ。
なぜ彼がこれほどまでに愛の人であるかは、彼の言葉の節々に見て取れる。それは彼が天の父なる神様の愛に満たされていることを実感しているからだ。彼は自分が人生のどん底にいて、人からも見放されるような状態のなかで、天の父なる神が無条件に彼を愛してくださり、立ち直らせてくださったことを身をもって体験した。そして、キリストが罪人や重い皮膚病という、当時の人々が避けていた人々の中に行き、彼らの友となり、それだけでなく人々の罪のために、十字架で犠牲になったことを聖書を通して悟った。それ故に彼のメッセージは、愛に満ちている。
実践
また、彼のメッセージが、人々を励まし続ける理由は、彼が聖書に書かれていることを圧倒的に実践しているということに尽きると僕は思う。聖書が人々に福音を伝えよと言うので、彼は各地で福音を伝えている。病のために祈れとあるので、礼拝ごとに病の人のために手を置いて祈っている。
先日、彼と彼の教会員が皆で協力して作り上げた新会堂を完成間際に少し見させてもらった。そこには、住み込みの人たちが、寝泊まりすることのできる場所が確保されていた。刑務所から出て、人生をやり直そうにも、頼れる人のいない人々を、彼は牧会を始めてから、一貫して教会に迎え入れていた。そして彼らと一緒に食事をし、お風呂に行き、仕事が見つけられるように励ましてきた。それでも皆が順調にいくわけではなく、裏切られたり、再び悪い道に行ってしまう人もいる。それでも彼と彼の教会の仲間は、この愛の実践をやめようとはしない。
このように、彼の人生そのものが聖書を実践しているので、彼の言葉は、人々の魂を揺さぶり、励ますのだ。
本の構成
この本は、例の編集者の方と二人三脚で作ったそうだが、メッセージ本文の他に、「あわせて読みたい」聖書箇所が書かれていて、読者がさらに深く学べるように構成されている。また章の終わりごとに、「進藤龍也からの質問」というコーナーがあり、私たちが知識を得るだけでなく、書かれている内容を自分に当てはめて実践できるように、チャレンジが与えられている。
おわりに
現在、この本は売れに売れ、キリスト教書店では売り上げ上位にランクインしているし、キリスト教書店に限らず、一般の書店でも取り扱っているそうだ。それもそのはずである。この本は面白く、深い聖書知識、波乱万丈の人生経験、そこからくる洞察力、そして神様の愛と人への愛に満ちている。
彼からは「盛って書いてね」と言われたが、これくらいでどうだろうか。それは冗談だが(「盛って書いてね」と言われたことは本当だが)、ぜひまだ読んでいない人は、手に取ってほしいし、自分の周りにいる人々のためにプレゼント用としても購入してほしい。(価格も1200円と低価格に抑えられている。)一般の書店にも流通している本なので、近くの本屋で扱っていなければ、取り寄せてくれるようにお願いすれば、どこの本屋でも取り寄せてくれる。そしてそのような声が増えれば、本が一般書店にもっと並び、福音宣教のために用いられると思うので、皆で協力してほしい。
■ 進藤龍也著『元極道牧師が聖書を斬る!マタイの福音書(上)ー昔極道・今キリスト教牧師 進藤龍也の源流』(はるかぜ書房みつば舎、2019年4月)
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