非常に頭はいいが人の話を受け付けない高宮という青年が処刑される場に、教誨師佐伯が立ち会いました。刑務官がカーテンをさっと開けると、そこには天上から絞首刑のための丸いロープが垂れさがっていました。そのロープを佐伯が見上げます。この時、この映画の監督の意図であったと思いますが、カメラは丸いこのロープを通して、佐伯のロープを見つめる顔をしっかりととらえていたのです。そして、その時間が意図的に長かったと感じました。
佐伯は、わずかに間違っていればその絞首刑に自分がかかっていてもおかしくない、自分もまだ若かったときにカッとなって人を殺していた可能性があった。自分の代わりに兄の健一が殺してくれたような事件があったのでした。人間というものは、何がどうなっていつ殺人を犯すかもしれないという恐ろしい可能性を持っている存在だということを、佐伯はこの時骨身にしみて感じていたのではないでしょうか。
高宮が処刑されたのは12月26日でした。その暮れも明けて、新しい年を迎え春が来ました。脳梗塞で体も言語も不自由になった元ホームレスの進藤からある日、彼が大事に持っていたグラビアアイドルの写真をもらいます。佐伯にお世話になったお礼にという意味であったのだろうと佐伯は解釈しました。家路に着く途中で車を止めて、幾つかに折りたたまれている写真を開いて見てみました。そして、何気なくその写真の裏側を見てみると、そこに進藤が震える手で懸命に書いたと見られるある言葉が、大きな字で書かれていました。
「わたしをつみにさだめるのはだれですか」と書かれていたのです。これは聖書のローマ人への手紙8章34節のみことばです。このみことばの中に、この映画のメッセージのすべてが込められていると私は見ました。すべての人は罪びとであり、本来神に裁かれるべき存在であるということ、死刑囚だけが罪を犯したのではなく、複雑にからみあった人間の罪がそのような結果を生み出したのであり、罪の問題を解決してくれるお方はイエス・キリストしかこの世に存在しないということ、この世では究極的な意味で人が人を裁くことはできないということ、キリストの十字架のあがないと赦(ゆる)しだけが、人を造り替えて平安をもたらし得るということ、そしてそこにだけ本当のいのちと希望があるということ。このことをこの映画「教誨師」が鋭く描き切ったと思います。(おわり)
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