聖書が作り話でなく真実の書だとどうして分かるのか、真実だという証拠は何なのか?
1. 第一に、一般の歴史的記録と符合することです。
ほんの一例にすぎません。BC853年のカルカルの戦いは楔形文字で記録されていますが、聖書列王記で出てくるアハブ王の活動と合致します。BC605年のカルケミシュの合戦は、そのものズバリでエレミヤ書46章に記録されています。
エジプトのパロ・ネコ、シシャクは聖書でもその動きが記録されています。アッシリヤの王ティグラテ・ピレセル、サルゴン、セナケリブ、エサル・ハドン、オスナパル(アッシュール・バーン・アプリ)の活動、新バビロンのネブカドネザル王、その子エビル・メロダク、孫ベルシャツァル、ペルシャの王クロス、ダリヨス、ローマの皇帝アウグストゥス、ティベリウス、クラウディウス、ユダヤ総督ピラト、ペリクス、フェスト、アカヤの総督ガリオ、もちろんダビデ、ソロモン、オムリ、エフーそしてヘロデ大王、ヘロデ・アンティパス、ヘロデ・アグリッパなど一般の歴史と共通する聖書の登場人物は切りがありません。
BC722年のサマリヤ陥落とアッシリヤ捕囚、エジプトのテーベの陥落、ニネベの陥落、エルサレムの陥落とバビロン捕囚、そしてバビロンの陥落。歴史のどぎつい出来事もきちんと預言され、書かれています。ローマの歴史家タキトゥスの記述はキリストの処刑すらも裏付けています。
2. 次に、多数の発掘物、その文字記録、遺跡などが聖書の記事を裏付けています。
1)メソポタミア流域から出土したおびただしい数の粘土板にかかれた楔形文字による記録(洪水記録、ウェルドの角柱、王名表など)、2)エジプト、ペルシャ、アナトリア、シリヤ各地で彫り込まれたヒエログリフや楔形文字その他の文字記録、3)これらの地域の都市遺跡(ウル、ニネベ、コルサバード、ニップールなど)、4)レリーフ、地下水道、立て穴道、馬庫跡、鉱山跡など、5)円筒印章、象牙の家、陶片通信文、カメオ、六角プリズム、オベリスク、モアブ碑文など、6)人口登録のパピルス。
3. 聖書の記事に実にたくさんの地名、人名が出てきます。
煩わしいほどにたくさんの名が書かれています。これほどの地名、人名は架空であれば思いつけません。この中には、他の史書や地誌で出てくるものもあります。よって、実在の地名・人名であります。つまり、聖書は事実を書いていることを示しています。
4. 聖書には数多くの預言が記載されていますが、その多くが成就(実現)しています。
- イエス・キリストの来臨について、その在り方について、その結果するものについて、受難について、受難の光景について、その与える影響について、預言があり、そのとおり成就しています。
- エジプトについて、エドムについて、ツロについて、アッシリアについて、バビロンについて、預言がなされ、そのとおり成就しています。
- ユダ、イスラエルの幾多の王について、その周辺の人物について、さばきと救出の預言がなされ、成就しています。
- バビロン捕囚とその帰還について預言がなされ、そのとおり成就しています。
- 全イスラエルの民について祝福と呪いの預言がなされ、成就しています(AD1948年にカナンの地に国が再建されたのは好事例)。
- 特定の個人の運命について、さばきや救出の預言が数多くなされ、そして実現しています。
これらは、真実の書、神の書でないとあり得ないことです。
5. 聖書の内容は壮大さ、奇しさで満ちています。
それらは、人間の想像力、構想力では到底思いつくことのできないストーリー(出来事の流れ)です。神の民イスラエルの自己中心性を越えて、その失敗・汚点をも隠すことなく、容赦なく書き記し、しかもそれに対する神の罰(苦難)についても率直に警告され、そのとおり実現したことを記述しています。ひいきもなく、虚飾もなく、真実があるのみです。
6. 信じた人の体験で分かります。
聖書を、外から眺めたり、論評したりするだけではその価値・真実性・神のことば性はなかなか分からないのですが、それを信頼して生きてみるとまことにそのとおりで、うそや不真実なことはありません。天地の神、恵みの神が信じる人を支え、助け、導き、耐える力・困難を乗り越える力を与え、善悪いずれにも正しく報いてくださることがよく分かってきます。作り話ではこのような力は生じないでしょう。
以上のような主な理由により、聖書は真実性に満ちた書だといえます。人間が構想した作り話ではなく、神が事実や出来事の中でみこころを示した書であるといえます。
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