死刑制度をどう考えるか。
思想犯に死刑制度があってはならないのは当然のことです。政治犯も含めて、ここでの議論から除きます。現在の日本の刑法で死刑となり得る犯罪は、殺人、放火などですが、その死刑制度は廃止すべきだ、という議論があります。その理由と考え方を掲げておきます。
1)冤罪(えんざい)の可能性が残るため。(しかし、本人が無実を主張し続けているときは執行保留にする制度を設計するなどの対応が可能かもしれない。よって、死刑制度廃止の根本的な理由とはならない。)
2)死刑は残虐で、民主主義思想、人権の尊重思想に合わないから。(執行方法を改善することは可能。死刑制度廃止の根本的理由とはならない。)
3)「さばくな」「赦(ゆる)しなさい」「人を罪に定めてはいけません」「兄弟が罪を・・・悔い改めたら赦しなさい」「あなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します」と聖書に書いているから。主は「隣り人を愛しなさい」と教え、最も大切な教えだとされたから。(しかし、これは個人の倫理であり世俗の国家の司法制度を検討するときの思想ではない。)
4)キリストもまた自分を十字架に架け、殺そうとしている者たちにさえ「主よ彼をお赦しください」と祈られたから。(3と同様、これらは神を信じる者の個人的な対人道徳だから、直ちに社会全体の司法制度に適用すべきとは考えられない。)
別の考え方として、
1)「あなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の値を要求する。・・・また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。人の血を流す者は、“人によって”、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから」とある(創世記9:5、6)。(“人によって” とは、人が造った国家によって、とも読める。国家は個々人に代わって人のいのちを要求することが許されると読める。)
2)モーセの律法にも、“殺すな” のすぐ後に「・・・する者は必ず殺されねばならない」との規定が幾つも並んでいる。(ただし、これらの規定が聖書全体の精神かどうか、なお検討を要す。)
3)神は愛である。しかし同時に義でもある。神は人に義を要求する。それ故にキリストの十字架の死が必要になった。罪には罰、それが大原則である。十字架による罪の赦しは、神の罰を免れる方法を神自ら備えてくださったもので、それは恵みであり、特則である。神の特則を世俗国家の制度の判断要素にすべきではない。
4)「人はみな、上に立つ権威に従うべきです」(ローマ13:1)、「人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい」(1ペテロ2:13)。(人即ち「世俗政府」が死刑制度を立てたなら、神の明白な教えに背かない限り、それに従うべきだ、と解せる。)
刑法学者は応報刑論(刑罰は犯した罪への報いであるべきだとするもの)と教育刑論(犯罪者が立ち直るための教育刑であるべきだとするもの)に大別されます。死刑は応報刑論に立つものといえるでしょう。
神の姿に似せて造られた人間には、正義の貫徹を求める心があります。この心が社会で法思想に収れんし、“国家が正義を貫徹すべし” との応報刑論になっているわけです。神によるさばきは予定されていますが、無神論者も含むこの世社会で、第一次的に国家が正義を貫徹しようとして死刑制度を維持するのは理解できないことではありません。
世俗政府は、ある部分で神に代わって秩序を維持し、正義を貫徹する役割を担っています。死刑は、被害者に代わって犯罪への報いを実現する役割を持っています。また、それによる凶悪犯罪の抑制効果も幾分かは期待されます。秋葉原通り魔事件のように、死刑になりたいと言って無差別殺人行為に走る者を死刑にできない制度はいかがなものかと考えられます。(よって、私見ですが、死刑制度を一切廃止することには疑問を覚えるところです。)
再度、死刑は誤審の場合取り返しがつかないとの議論については、取り調べの可視化を導入したり、判決後も無実を主張し続けている場合は執行を保留にしたり、徹底的な改悛を前提に執行を停止できるとか、場合によっては釈放までなし得るように関連制度を整備することで、過酷さを緩和して、全体的に適正な制度に改変し得ると考えます。
死刑制度は原則維持して、問題点への対応策を周辺に整備すべきではないでしょうか。
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