皆さん、こんにちは。引き続き、京大式・聖書ギリシャ語入門を担当させていただいております、宮川創、福田耕佑です。美しい桜や新緑の季節も、気が付けば花粉と共に過ぎ去り、令和になったなぁ、などとぼんやりしていると、今度は愛らしいアジサイの季節が梅雨と共にやってまいりました。聖書には「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(ペトロ二3:8)と書かれています。日々の雑事に追われ、不安定な世の中を漂って生きるわが身ですが、変わることのない堅固な岩である神と、その言葉と共に一日一日を生きていければ本当に幸いだなぁ、としみじみ感じる日々です。
注意深い読者の皆様の中にはお気付きの人もいらっしゃるかもしれませんが、実はこれまでの講座の中で、だんだんギリシャ文字の発音をラテン・アルファベットに転写して表記するのを減らしています。確かに一回一回、ラテン・アルファベットに転写するのは大変なのですが、決して手抜きで転写を省いているわけではありません。現代のギリシャで、実際に使われているギリシャ語の発音を紹介するための布石だったのです(笑)。
■ ギリシャ文字の発音は一つじゃない??
同じアルファベットでも、例えば英語では z を大雑把に言って、日本語の「ザ行」に近い音で読みますが、ドイツ語ではこれまた大雑把に言って、日本語の「ツ」に近い音で発音します。このように言語によって、また時代と場所によって、同じ文字でも発音が異なるということは往々にしてあります。日本語も、『源氏物語』の時代と現在では発音が大きく異なっていることでしょう。これと同様のことがギリシャ語にも言うことができます。
紙面の都合上、詳しく書くことはできませんが、ギリシャ語はホメロスのギリシャ語から、古代アテネのギリシャ語、そして聖書のギリシャ語や中世ビザンツのギリシャ語に至るまで、時空を超えて人々の日常生活と芸術や哲学、そして神の言葉として使われ続けています。当然それぞれの時代で発音は変化し続け、多くの言語学者たちが今なおこれらの発音について研究しています。ですが、ギリシャの中学校などで行われている古典教育において、私たちがこれまでに本講座で学んだ古典式の発音を用いることはまずなく、すべて現代式の発音を用いて発音し、そしてギリシャ国内やトルコのイスタンブール(コンスタンディヌーポリ)に存在する教会の奉神礼や聖歌においても、古典式ではなく現代式の発音が使われています。
もちろんギリシャ語は今でも綿々と使われている言語です。確かに古代のギリシャ語とは結構違います。「似ても似つかない」と言う人がいるのも事実です。そして現代ギリシャ語が、誇り高き古典ギリシャ語の子孫に当たる言葉なのかどうか、この問題は現代のギリシャ人にとってあまりに重要な問題であり、200年ぐらいは神経質に議論し続けました。
日本では、ギリシャ語を発音する際、主に古典式に由来する発音を使っています。その証拠に、Ἀμήν や Ἁλληλούια は一般に「アーメン」や「ハレルヤ」と発音されています。しかし後にきちんと紹介しますが、Ἀμήν や Ἁλληλούια は現代式ではそれぞれ「アミン」と「アリルヤ」と発音し、日本でも正教会ではこれに近い発音が使用されています。
執筆者の一人である福田が見分した限り、ギリシャのプロテスタント教会でもすべて現代式の発音が用いられており、日本などのように教派によって聖句やギリシャ文字の発音が違うといった事態は存在しませんでした。
また、福田は高校時代を合唱部で過ごしたのですが、「キリエ・エレイソン」というよく分からない呪文を、何回も唱える外国の歌を聞いた記憶があります。今になってみると、あれは Κύριε ἐλέησον で「主よ、憐(あわ)れみたまえ」という意味の言葉だったと分かります。ですが、よくよくギリシャ語を見てみると、これまでの講座で学んできた古典式の発音では、「キュリエ・エレエーソン」になるはずです。この「キリエ・エレイソン」という発音は、現代式の発音に近似しています。
このように、日本では95パーセントぐらいは古典式の発音に由来するギリシャ語の発音が使用されていますが、現代式に由来する発音も存在します。また後程紹介しますが、日本人の人名や地名も、すべて現代ギリシャ語の発音標識に従って表記されます。このように、「千年が一日のように」とはいかず、長くて濃い歴史を経たわけですが、ギリシャ語は主の言葉が筆記されて以来、今なお礼拝や奉神礼で用いられ続け、生き続けています。
■ ギリシャ文字のアルファベットの解説
* ギリシャ語発音の心構え
本講座では、初めてギリシャ文字を学ぶ人のために、正確さを多少犠牲にしてでも、まずはとにかく聖書を音読できるようになることを最優先に解説しています。皆さんにも、実際に使徒パウロが話したギリシャ語と同じ発音で発音することに、どれほどの意味があるのか考えていただきたいと思います(実際に寸分違うことなく聖書の時代のギリシャ語の発音が分かったとすればの話ですが)。例えば、現在のギリシャ人たちが新約聖書原典や七十人訳聖書、またビザンツ時代から歌い継がれている聖歌を朗読したり讃美したりする際には、現代のギリシャ語の発音を用いています。それだけではなく、ギリシャ悲劇やサッポーなどの古典詩、プラトンやアリストテレスなどの哲学、果てはホメロスの叙事詩に至るまで、例外なくすべて現代ギリシャ語の発音で音読しています。
日本でも皆さん、中学生や高校生の時に古典を音読しましたよね。この時に、平安貴族の発音で音読した方は誰もいなかったのではないでしょうか。教室で読んだ『源氏物語』も現代の日本語の発音で音読しましたよね。現代の中国人も漢文を現代中国語の発音で音読しているのです。またイギリス人やフランス人がギリシャ・ローマ古典の作品を朗読するときも、それぞれ自国語の訛(なま)りを持ったままそれぞれの発音をすることが多いです。このような次第ですから、古典でもある新約聖書のギリシャ語の正確な発音にこだわり過ぎる必要はないと考えています。
聖書に何度も現れる「霊」という単語は、ギリシャ語で Πνεύμα ですが、この単語を「プネウマ」「プネヴマ(現代ギリシャ語式)」「プニューマ(英語式)」「プヌーマ(フランス語式)」「プノイマ(ドイツ式)」と発音したとして、どれが誤っているということはないでしょう。便宜上発音の仕方が統一さえしていれば、聖書が伝えるメッセージに何の影響もないのではないでしょうか。間違っても、説教者たちや一生懸命に御言葉を求め学ぼうとしている方のギリシャ語の発音をばかにすることのないようにしたいものです。このあたりの詳しい解説や学説は、織田昭著『新約聖書ギリシア語小辞典』(教文館、2002年)の「新約聖書ギリシャ語の発音について」にありますので、そちらを参考にしてください。
* ギリシャ文字のアルファベットと現代式の音価
文字 | 音価(現代式) | |
---|---|---|
Α, α | a | 日本語の「ア」とほぼ同じ。 |
Β, β | v | 英語の v、ロシア語の в に当たる。「バ行」(b)ではないので注意! |
Γ, γ | ɣ, j | ア、オ、ウの前ではスペイン語の pagar のような柔らかい g の音。イ、エの音の前では英語の yes の y の音のように発音する。 |
Δ, δ | ð | 英語の that や these の th の音。「ダ行」(d)ではないので注意! |
Ε, ε | e | 日本語の「エ」にほぼ同じ。 |
Ζ, ζ | z | 日本語の「ザ行」にほぼ同じ。 |
Η, η | i | 日本語の「イ」にほぼ同じ。長音の「エー」ではないので注意! |
Θ, θ | θ | 英語の th に相当。 |
Ι, ι | i | 日本語の「イ」にほぼ同じ。η と ι は同じ「イ」の音になる! |
Κ, κ | k | 日本語の「カ行」にほぼ同じ。 |
Λ, λ | l | 英語の l のように舌を前歯に当てて発音。 |
Μ, μ | m | 日本語の「マ行」にほぼ同じ。 |
Ν, ν | n | 日本語の「ナ行」とほぼ同じ。 |
Ξ, ξ | ks | 英語の x と同じ「クス」のような音。 |
Ο, ο | o | 日本語の「オ」とほぼ同じ。ο と ω は同じ「オ」で発音に区別なし! |
Π, π | p | 日本語の「パ行」とほぼ同じ。 |
Ρ, ρ | r | 日本語の「ラ行」に似ているが巻き舌で発音。 |
Σ, σ, ς | s | 日本語の「サ行」にほぼ同じ。ς は語末のみで使用。 |
Τ, τ | t | 日本語の「タ行」とほぼ同じ。 |
Υ, υ | i | 日本語の「イ」にほぼ同じ。η と ι と υ は同じ「イ」の音になる! |
Φ, φ | f | 英語の f に相当。 |
Χ, χ | ch, h | ドイツ語の Bach(バッハ)の ch やロシア語の х ように、喉の奥を擦るような音。また日本語の「ハ行」(h)でも代用可。 |
Ψ, ψ | ps | 「プス」という発音にほぼ同じ。 |
Ω, ω | o | 日本語の「オ」とほぼ同じ。ο と ω は同じ「オ」で発音に区別なし! |
今回はそれぞれの文字の発音を紹介するにとどめ、次回の講座で複合母音の読み方の規則など、残りのルールを紹介します。またアクセントについて紹介すると、①鋭(´)、②重(`)、③曲(῀)の3種類のアクセントを、すべて一様に英語のように強勢を込めて発音してください。また、現代ギリシャ語では、気息記号はすべて無視して発音されます。ですので、ἁ は古典式の発音では「ハ」となりますが、現代式では ἁ も ἀ も両方とも「ア」と発音します。
では、実際に聖書の人物や地名などを、現代ギリシャ語ではどのように発音するのかを見ていきましょう。
Ίησοῦς Χριστός イイスス・フリストス(イエス・キリスト)
Βαρνάβας ヴァルナヴァス(バルナバ)
Ἀμήν アミン(アーメン)
Ἁλληλούια アリルヤ(ハレルヤ)
ὡσαννά オサンナ / オサナ(ホサナ)
Κύριε ἐλέησον キリエ・エレイソン(主よ、憐れみたまえ)
Δανιήλ ザニイル(ザの部分は ð の発音)(ダニエル)
となります。日本のプロテスタント教会や日本で一般に耳にする呼称ではなく、むしろ日本の正教会の奉神礼の中で耳にする呼称に近くなっているのではないかと思います。特に η と δ と β の音の違いは大きいですね。
次に、日本の地名や人名をギリシャ文字で書いてみましょう。
Χιροσίμα ヒロシマ(広島)
Γιοκοχάμα ヨコハマ(横浜)
Κιτακιούσου キタキゥス(北九州)
Οκινάβα/Οκινάουα オキナヴァ / オキナウァ(沖縄)
Γιουσούκε Ισέγια ユスケ・イセヤ(伊勢谷友介)
となります。古典ギリシャ語の表記に慣れている人は、ヤ・ユ・ヨの表記に大きな違和感を感じると思いますが、現代ギリシャ語ではこのように表記します。また「ワ」の音や「シャ・シュ・ショ」の音も、それぞれに近い音で代替するのが一般的です。特に俳優の伊勢谷友介さんのお名前は、古典式で読むと「ギウスケ・イセギア」になってしまいますね(笑)。
今回はまだ現代式の発音の規則を3分の2ほどしか紹介できませんでしたが、いかがだったでしょうか。繰り返しになりますが、便宜上、発音の仕方が統一さえしていれば、聖書が伝えるメッセージに何の影響もありません。今回の講座を通して、聖書のギリシャ語が、ギリシャやまた日本で現在どのように受け継がれているかを、皆さんと共に垣間見ることができれば幸いです。次回の講座では残りの発音の規則と、現代のギリシャでは実際に聖書がどのように朗読されているのか、そして現地で聞いた中世のビザンツ歌唱などの話もお伝えできればと存じます。(続く)
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宮川創(みやがわ・そう)
1989年神戸市生まれ。独ゲッティンゲン大学にドイツ学術振興会によって設立された共同研究センター1136「古代から中世および古典イスラム期にかけての地中海圏とその周辺の文化における教育と宗教」の研究員。コプト語を含むエジプト語、ギリシャ語など、古代の東地中海世界の言語と文献が専門領域。ゲッティンゲン大学エジプト学コプト学専修博士後期課程および京都大学文学研究科言語学専修在籍。元・日本学術振興会特別研究員(DC1)。京都大学文学研究科言語学専修博士前期課程卒業。北海道大学文学部言語・文学コース卒業。「コプト・エジプト語サイード方言における母音体系と母音字の重複の音価:白修道院長・アトリペのシェヌーテによる『第六カノン』の写本をもとに」『言語記述論集』第9号など、論文多数。
福田耕佑(ふくだ・こうすけ)
1990年愛媛県生まれ。現在、京都大学大学院文学研究科現代文科学専攻博士後期課程、日本学術振興会特別研究員(DC1)。専門は後ビザンツから現代にかけての神学を含むギリシャ文学および思想史。特にニコス・カザンザキスの思想とギリシャ歴史記述とナショナリズムに関する研究が中心である。学部時代は京都大学文学部西洋近世哲学史科でスピノザの哲学とヘブライ語を学んだ。主な論文に「ニコス・カザンザキスの形而上学と正教神学試論―『禁欲』を中心に―」『東方キリスト教世界研究』第1号など。