法律は最後の砦――通報を基準に考えるのではなく隣人として
児童虐待の程度について、要保護(レッド)、要支援(イエロー)、要観察(グレー)の3段階に分けたとき、多くの要支援、要観察については、いまだにその支援理論が俎上(そじょう)に載っている段階でしかありません。有志が試行錯誤をしている段階の地域も少なくありません。しかしその一方で、保育所や認定こども園、幼稚園などでは、その学びを深め始めています。
ここで大切なことは、厳密に考えれば、要観察段階というのは、子育て世帯のすべてに当てはまるということです。ほとんどの世帯は微妙なバランス感の上にあるだけで、虐待に至る種は眠っていると考えるべきです。今は、たまたま物事が良い方向に向かっているだけで、何らかの原因で一度それが崩れたときに支援が必要となるのです。しかし、その時に適切な支援が届かなければ、マルトリートメントは次の段階に進んでしまいます。つまり虐待は「社会問題」なのです。
第1回でご紹介したチャイルド・プロテクション・チーム(CPT)の仕組みを、地域は一体どのように創設していけばよいのでしょうか。「善きサマリア人のたとえ」の中で、イエス・キリストは「あなたはこの3人のうち誰がその人の隣人となったか」と問われます。虐待は「隣人がいない環境」で悪化するのです。そこに着目し、子ども食堂などを展開する教会も増えてきました。本当に虐待を防ごうとするのであれば、やはり地域の連携は欠かせないでしょう。
地域版CPTの受け皿として、教会は大きな可能性を持つと私は期待しています。「隣人」とは「共に歩む人」という意味です。教会は「誰が見捨てたとしても神が見捨てない」という「隣人性」を内包していると、私は確信しています。「あなたの敵を愛しなさい」という主の宣教命令は、この虐待についても重要な示唆を示していると思います。
命の誕生を喜び、命の尊厳を証しする
出産は命懸けの一大事です。新しい命が生まれるということは、母親とその子の命懸けの証しであり、それに私たちは謙虚にならなければなりません。母親、そしてその胎の中の子、その一人一人の命の尊厳を認め、大切にすることからしか、虐待は食い止められないのです。生まれる前からみんなで楽しみにし、悲喜交々(ひきこもごも)を共に味わい生きていく決意は、信仰からしか導き出せないのです。出生率や、出生者数のみが語られる中で、私たちはその尊厳を忘れかけてはいないでしょうか。そしてそのつけが今、虐待としてクローズアップされていると思わざるを得ません。
児童福祉法や児童虐待防止法が改正されたことについて「法的には前進」という評価を私が与えたのは、そのことです。どんな法律があったとしても、虐待がなくなることはありません。
今から50年ほど前、チャウシェスク独裁政権下にあったルーマニアでは、富国強兵政策の一環で、「産めよ増やせよ」の人口増加政策を行いました。しかし、育児放棄などが続出し、孤児院を設立して対応したものの、その孤児院そのものが予算不足などで劣悪だったのみならず、政権が崩壊するのと同時に崩壊し、多くのストリートチルドレンが生み出されてしまいました。これは国家規模の虐待ともいうべき事態となりました。
わたしはあなたを母の胎内に造る前から
あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に
わたしはあなたを聖別し
諸国民の預言者として立てた。
(旧約聖書・エレミヤ書1章5節)
私たちは主の御業をすべて知ることはできませんが、主はエレミヤを通して、すべての命に対して、母親の胎内に宿る前からその命を知り、聖別し、祝福したと語ってくださっています。その証しを受けた私たちは、これから生まれてくる命をはじめとしたすべての命に対して、主に倣って「命の尊厳を証しする者」になりたいと思います。主の愛を伝え、主の祝福を祈り、その「命の尊厳」を証し続けることが、主にある私たちに対する大宣教命令であると確信しています。
虐待の問題は、今取り組み始めたとしても、これから120年にわたる課題です。私たち一人一人もまた、母の胎内に宿る前から主に知られ、聖別され、祝福され、今立てられているのですから、そんな私たちがしっかりとまず「手を取り力を集結」させることから始めていこうではありませんか。
皆様のお働きの上、主の祝福が豊かにありますように祈ります。(終わり)
◇