奈良県の神学校「生駒聖書学院」に今春、通信生として入学した中尾博章さん(49)は、同期で入学した兼光伸一さん(58)と同じく、10代でヤクザの道に入った。兼光さんが貧しい家庭に生まれた一方、中尾さんはそれとは対照的に、経済的には裕福な家庭で生まれ育った。中学生の頃は成績も優秀で、地元の有力校へ進学を薦められるほどだった。そんな中尾さんがなぜ暴力団に入り、これまでの約50年の人生のうち30年もヤクザとして生きるようになったのか。そして、どのようにしてイエス・キリストに出会い、救いを経験したのか。5月中旬に生駒聖書学院を訪れ、その半生を伺った。
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「夢は警察官」だった少年時代
中尾さんは1970年、生駒聖書学院がある生駒市から電車で30~40分ほどの桜井市で生まれた。父親は、奈良県内にテナントビルを幾つか所有しており、その家賃収入だけで不自由なく生活できたという。しかし、中尾さんの家庭には一つ大きな問題があった。それは、父親のドメスティックバイオレンス(DV)だった。
小さな頃から、父親の暴力に苦しむ母親の姿を見てきた中尾さんは、物心ついたときには「暴力を阻止できる人になりたい」と、将来は警察官になることを夢見た。その願いは子どもながらに真剣で、実際に地元の警察官からアドバイスを受け、幼い頃から勉学や空手、柔剣道に励んだ。空手は6歳、柔道は9歳、剣道は10歳で始め、中学3年生の時には成績も学年トップクラス。クラスの担任や学年主任から、県内の有力校へ進学を薦められるほどだった。
しかしそんな時、両親が離婚。母親が家を出て行き、中尾さんは3歳下の弟と共に父親の元に残された。父親は昼間から酒浸りの生活を送り、ある日、中尾さんが学校から帰ってくると、家に知らない女性がいた。父親は離婚後すぐに20代の若い後妻を迎え、中尾さんたちのことなど考えることなく、道楽三昧の生活を送った。
「柔剣道に精を出して、勉強も頑張っていたのに、何でこの時期にという思いがありました。離婚だけなら乗り越えられたかもしれませんが、若い後妻を連れ込み、子どもがいるのになぜあんな生活をするのかと。正義感が父に対する反発心に変わりました」
暴力から人を守る警察官を夢にしていた中尾さんだったが、父親に対する強い反発心から「自分もまったく別の道を歩んでやる」と決めた。クラスの担任や学年主任からは何度も考え直すよう言われたが、高校へ進学はせず、16歳で地元の暴力団事務所の門をたたいた。
「今振り返ると、当時はまだ子どもでしたから、それが父親に対する精いっぱいのシグナルだったのかもしれません」
警察の目もあり、18歳になるまでは親分の家に住み込みで働いた。トイレ掃除から庭の草むしり、犬の散歩など、あらゆる雑用をこなした。「朝は親分が起きるより先に起き、夜は親分よりも遅く寝るという生活を2年間続けました」
刑務所で出会った聖書と人生の恩師
18歳で一度少年院に入るが、その後は「経済ヤクザ」となり、非合法な手段でかなりの額のお金を動かしたという。しかし34歳の時、ある事件で10年以上の長期刑を余儀なくされる。収容されたのは、無期懲役の受刑者だけでも200人ほどが収容されている徳島刑務所だった。
受刑者は、無期懲役を含め刑期が10年以上の場合、L級と分類される。さらに、犯罪傾向の進度により、進んでいない人はA級、進んでいる人はB級とされる。徳島刑務所はLB級、B級に分類された受刑者を収容する刑務所で、それまでに2回、計3年の刑務所収容経験のあった中尾さんはLB級だった。
収容されてから4年後の38歳の時、ある無期懲役の受刑者から聖書を手渡された。中尾さんはヤクザではあったが、沖縄の地に6年間渡って琉球祖神道を学んだり、仏教書を読んだりと、哲学的なことや宗教的な事柄に対する深い探究心を持っていた。父親が母親に暴力を振るっていたときには、心の中ではいつも「神様、助けて」と叫んでおり、「自分が求める神とは何だろう。人間は何のために生まれ、死んでいくのか」という思いを若い頃から抱いていたという。そんな素地があったことから、聖書を読み始めると「自分が求めていたことが、この一冊にあると感じました」という。
しかし、聖書に登場するさまざまな奇跡については疑問があった。そんな中尾さんの疑問に答えてくれたのが、徳島刑務所で教誨師(きょうかいし)をしていた清原修牧師だった。清原牧師から個人教誨を受ける中で、聖書のすべてを信じられるようになり、出所後にはクリスチャンになりたいという思いが与えられた。
46歳で刑期を終え出所。清原牧師が牧会していた徳島市内の教会で信仰生活を送るようになる。所属していた暴力団には、すでに受刑中に足を洗うことを伝えていたが、何しろ十数年ぶりの社会復帰で、出所後もさまざまな試練や誘惑があった。
「出所前は、組織を出てクリスチャンになり、まともな人生を送りたいと思っても、またどこかでつまずいて、元の世界に戻ってしまう可能性も十分にありました。礼拝を守れないときも正直ありました。それでも支えてくれたのが清原先生でした」
鳴門の海岸で妻と共に受洗
徳島刑務所には、重刑の受刑者が多く収容されているが、そんな中でも中尾さんのようにイエス・キリストと出会い、信じるようになる人もいる。しかし受刑者の求めがあっても、清原牧師はなかなか洗礼を授けないことで有名だったという。その人の信仰がしっかりとしたものであることが確認できるまでは、洗礼を3年、5年と延ばすこともあった。それは中尾さんに対しても同じだった。中尾さん自身は出所後すぐに洗礼を考えたが、清原牧師はなかなか認めてくれなかった。
だが、中尾さんも当時の自身の状況を「実際、堅気になれるか、元の世界に戻るか、五分五分でした」と振り返る。元受刑者の社会復帰は難しい。「堅気の仕事を」と考えても、就職は厳しく、出所後すぐに生活の基盤を整えることはなかなかできない。暴力団との関係があれば、それを断つことができず、再犯を繰り返してしまう例が多くある。
しかし、中尾さんの信仰の歩みは清原牧師にも認められ、昨年6月10日、鳴門の海岸で、出所後に結婚した妻と共に洗礼を受けた。
「洗礼を受けてクリスチャンになってから、本当に日々新しく変えられる自分を感じています。日常の中で、さまざまな試練や誘惑もたくさんありますが、すべては主の器になるための訓練だと思っています。あれほどあったお金に対する執着を手放せ、女、酒、ばくち、違法薬物などから完全に引き離されました」
神学校に入学、時給830円で稼いだ給料を学費に
受洗後、神学校に進むことを考え、清原牧師を含めさまざまな牧師に相談した上で、生駒聖書学院への入学を決めた。母方の伯父の介護をする必要があるため、今は地元の桜井市で妻と共働きをしながら、DVDやテキストを用いて学ぶ通信制度を利用し、通信生として学んでいる。
「経済ヤクザ」として、かつては大金を得ていた中尾さんだが、現在の職場は桜井市の特産「三輪素麺(そうめん)」を製造している小さな事業所だ。時給830円で、月収はわずか10万円ほど。しかし金額は問題ではない。「今は、その小さな事業所で働けることに大きな喜びを感じています。御言葉に忠実に従おうとする自分の姿があることに、私自身が一番驚いています」と話す。
生駒聖書学院への入学を決めたとき、東京で会社を経営しているヤクザ時代のかつての仲間が学費を支援してくれるという話もあった。しかし、清原牧師は「自分自身の手で稼いだお金で学費を納めるのが誠実さではないか」とアドバイス。生活費は妻の収入でまかない、学費は中尾さんが汗水流して働いて得たわずかな給料から納めている。
これまで味わった痛みを経験に変えて
将来は桜井市で教会を立ち上げたいと考えている。そのため今は視野を広げたいと、さまざまな教派の教会を訪れ、礼拝に参加している。中尾さんが特に重荷を持っているのは青少年だ。今もすでに、非行に走りそうな知人の子どもの相談に乗るなどしている。
「自分の経験も踏まえ、人生の一番大事な時期に非行へ走らないようにさせてあげたいです。非行に走ってしまう若者の気持ち、薬物依存者の気持ち、暴力団で活動する人の気持ち、つらい家庭環境を持つ子どもの気持ち。自分も経験してきたことなので分かります。これまで味わってきた痛みを経験に変えて、罪と交わることのない人生を送れるようにしてあげたい。それが、自分の今後の人生でありたいと思っています」
インタビュー最後に愛唱聖句を尋ねると、「すべての聖句がお気に入りですが」と前置きしつつ、コリント人への手紙第一13章13節「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です」を挙げてくれた。
「この『愛』とは何かを、榮義之学院長から教えていただきました。愛というのは、自分が大切にしているものを隣人に与えること。私にとって大切なのは、信仰であり、イエス様。それを人にプレゼントすること、すなわち伝道することで、愛を表していきたいです」