クリスチャンはどうしてご先祖様を拝まないのか。
逆に、なぜご先祖様を拝むのでしょうか。多分、自分が存在するに至った原因をなしてくれたから、という答えでしょう。しかし、父母、祖父母、曽祖父母とさかのぼってどの先祖を拝んでいるのでしょうか。
墓も法要も2、3代前の人しか覚えられていません。2、3代前は拝み、それ以前の先祖は拝まないというのでは首尾一貫しません。
先祖全部を“ご先祖様”という概念でひとくくりにして拝んでいるのでしょうか。ご先祖様の中には立派な人もいたかもしれませんが、身勝手な生き方をして親族を困らせた人もいたかもしれません。
とにかく人間のひとりでした。その人間のひとりが他人と同じように、生殖行為と保育、子育てをしたというだけでどうして拝まなければならないのでしょうか。自分という存在に不満があって、ご先祖様に感謝する気持ちもあまり起こらない人もいるでしょうが、それでも拝まなければならないのでしょうか。
自分という存在の根源を造ってくれたのは、ご先祖様というよりも、人間が生殖行為をするなら子が生まれるように仕組んでくれた神、保育・子育ての本能を植え付けてくれた神、いのちの息を与えてくれた神であるといえるでしょう。その方こそ真に拝むべき相手だと考えるのです。
ご先祖様も人間でした。人間や過去の人間はむろん神ではなく、神のシステムで造られた存在ですから、神のように拝むべき相手ではありません。もちろん、クリスチャンは、ご先祖様を決して粗末にはしません。拝むのではなく、記念します。すなわち、敬意をもって記憶にとどめ、記念するのです。
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