私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(2コリント4:18)
私の知人がモーニングセミナーで講話をしていたときに、「この世界は見える世界と見えない世界があり、実は2つの世界はつながっているのだ」と語られ、心に響きました。見える世界というのは、学歴、地位、成功、収入、家や車だというのです。
この世の人々は、これらのものを手に入れようと必死になっています。中には、家族と過ごす時間を軽視したり、休日も返上して働いたりします。欲しかったものは入手するかもしれませんが、健康を害し、家庭における人間関係に問題が生じることもあります。
見えない世界というのは心の問題であり、魂の世界です。見えない世界はどうでもいいと思っている人がいますが、見える世界とつながっているのです。見えない世界に心を注ぐと、見える世界は半分の労力で大きな成果が出るのですという主張に、感銘を受けました。
私は牧師として40年間生きてきましたが、牧師の最大の役割は、見えない世界と見える世界をつなぐ支援をすることではないかと思います。心の問題を大切にし、宗教に熱心になれば、貧しくなり、欲しいものも入手できなくなるのではないかという人がいます。しかし、見えない世界にこだわった人は人生の祝福も与えられています。
病気などで余命宣告された人は、家とか車など物質的なものはほとんど欲しがりません。ただ一つ願うことは、今までお世話になった人に「ありがとう」を伝えたいということだそうです。もし明日までしか生きられませんと言われたら、見える世界には何も未練はなく、今まで生かされてきたことの感謝と、支えてくださった方々への感謝の気持ちしかないと思います。ルカによる福音書に、イエスの語られたたとえ話があります。見える世界に固執した人の結末の物語です。
ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。「どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。」そして言った。「こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。『たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。』」しかし、神は彼に言われた。「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。」自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。(ルカ12:16~21)
エジプトの地にいたイスラエルの人々は肥沃な土地で生活し、食べ物は十分にありましたが、奴隷としての生活を送っていました。この民を神が憐れみ、モーセに率いられてエジプトを脱出し、荒野を目指します。荒野では食べ物を入手することはできませんので、神は天からマナを降らせ、イスラエルの民を養われます。マナは1日分の確保しか許されませんでした。欲張って余分に確保しても翌日には腐っていました。
この出エジプト記が示している教訓は、その日の恵みはその日1日分で十分ということです。今、生かされている、今日食べる物はある、寝る所もあるというのなら、それで十分ということではないかと思います。神は私たちの近くにおられ、私たちを見守り、私たちのためにご計画を持っておられます。この神に委ねて思い煩いから解放されなければなりません。
神は荒野での試練を経て、霊的に成長したイスラエルの民を「乳と蜜の流れる国」に導かれます。神が備えておられるのは滅びの道ではなく、祝福の道なのです。多くの人の体験談を聞いても、自分の人生を振り返ってもそうなのですが、自分にとって不利益だ、損だ、マイナスだと思ったことが、後になってプラスに転じるきっかけになることがあります。見えない世界で誠実に生きようとすれば、見える世界も良い方向に転じていきます。
私は誕生メッセージを送るときや手紙を書くとき、「祝福を祈ります」と付け加えます。そして、その場でメッセージを送る人のことを覚えて祈るようにしています。そうするとクリスチャンではない方からも「牧師さんに祝福してもらってうれしいです」と反応があります。見える世界での私自身の成果はあまりないかもしれませんが、祝福を祈れることは大きな喜びです。
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。(エペソ1:3)
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