わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。 (ヨハネ14:6)
三つ目の「わたしがいのちなのです」とは、どういう意味でしょうか?
聖書は「いのち」について、二つの異なったことばを使っています。一つは、肉体的生命、すなわち一時的な生命の場合に用いられています。もう一つは、肉体を超えた永遠の意味における生命を指しています。キリストが「わたしがいのちである」と言われたのは、そこに生命を必要とする状態があるからです。
聖書では、神から離れている状態を「死んでいる」と表現しています。これは肉体的な生命の「死」ではなく、霊的な意味における「死」を指しています。どんな立派なオーディオセットをそろえても、電源につながなければ良い音楽を聞くことはできません。電流が流れてこなければ何にもならないのです。そのように、人間が生命の源である神から離れたら、肉体的には生きていても、内面的・霊的には死んだ状態だと、聖書は教えているのです。
また、主体性のない生き方、それも死んだ状態であると聖書は言っています。私たちは自分の意志で自由に、自分のしたいこと、したくないことを選べると思っています。そうでなくても、少なくとも「・・・・・・したい」と願うものです。しかし、現実には自分の願いと裏腹なことを行ない、悩み、苦しんでいるのです。
同時に、聖書は永遠の死、永遠の滅びを意味する死を告げています。
人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている (ヘブル9:27)
生きながらにして死んだような生活を送りながら肉体上の死を迎えるならば、今度は永遠の死、地獄へ向かうことを知ってください。
しかし、そのような人類に対して、イエス・キリストは「わたしがいのちである」と語っておられます。キリストは生命の源、神ご自身ですから、信じる者にいのちをお与えになることができます。
わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 (ヨハネ11:25)
イエス・キリストは、ご自身、その生命を十字架上に捨ててくださいましたが、三日目に死より復活して、ご自分がいのちの主であることをあかしなさいました。そして、目には見えませんが、イエス・キリストは今も生きておられ、信じる者にいのちを与えてくださいます。ですから、聖書は次のように宣言しているのです。
御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。 (?ヨハネ5:12)
いのちであるキリストをもつ時、その人は生き返るのです。つまり、生まれ変わりの経験をするのです。キリストのいのちが、その人の心を変えてくださるので、生活が変わり、運命が変わって、文字どおり、生まれ変わった新しい人生が始まります。
キリストにある人生は、生き生きとした力強さに満ちた人生です。豊かな人生を生きることができるのです。さらに、イエス・キリストを信じる者は、当然のことですが、永遠のいのちをもち、天国に生きるようになるのです。
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『希望の声』(マルコーシュ・パブリケーション)は、同師がラジオ番組「希望の声」で伝えたメッセージをまとめた珠玉のメッセージ集。放送開始25年を迎えた98年に、過去25年間伝え続けたメッセージの中から厳選した38編を紹介している。