当初、3回シリーズで終わる予定だったが、6月末に米ケンタッキー州の公立学校で聖書を教えることが認められたというニュース(英語)が飛び込んできたため、「補遺」として本件を紹介し、その行く末を読者の皆さんと共に見守っていきたいと願っている。
ケンタッキー州では6月28日、公立学校で聖書を教えることを認可する法案が可決され、マット・ベビン知事がこれにサインし、コメントを発表した。
「私たちはこれ(公立学校で聖書を学ぶ機会を提供すること)を付け足し(option)とはまったく考えていない。そうだとしたらとんでもないことだ。どうして他州も同じような措置(「聖書」を選択科目の1つに置くこと)を取らないのか。米国民としてそうすべきではないのか」
かなり強気の発言である。本法案は通称「アーメン法案」と呼ばれ、公立学校のカリキュラムに、必須科目ではないものの、単位と認定されないオプションではなく、選択科目として「聖書」を取り入れるというものである。そのため、同法案を法的にチェックしたケイト・ミラー弁護士は「これは教師が聖書を教授するという意味での科目であって、決して教師が説教するものではありません」と付け加えている。
ベビン知事も「あなたが無神論者であっても構いません。聖書から多くの知恵を得ることで、あなたは(この科目があったことに)感謝するでしょう」と述べている。
だが、果たして事はそんなに単純であろうか。
このニュースを伝えたFOX系テレビ局のキャスターは開口一番、「これからケンタッキー州の生徒たちは、公立学校で黙示録を学べます」とセンセーショナルな語りをしている。単純な「選択科目」として、人々は捉えていないようだ。その背景にはさまざまな立場が見え隠れしているように思われる。
米国において、キリスト教は世界3大宗教の一角を担う「キリスト教」であって、同時にそうではない。私の師匠、森孝一先生の言葉を引用するとこうなる。
多様な背景を持った人々によって構成されるアメリカは『共通の過去』としての民族意識によって国民を統合することのできない国家である。『共通の過去』を持たないアメリカを統合するのは、『共通の未来』としての理念、理想、信条でしかない。(『宗教からよむ「アメリカ」』より)
つまり国家の理念、理想、信条を体現する米国特有の「キリスト教=見えざる国教」が存在しているのである。しかしこの独特なキリスト教は、19世紀末に近代主義に基づいたキリスト教神学(リベラル神学)から攻撃を受けたことで、牧歌的な時代の終焉(しゅうえん)を告げられた。そして米国は1920年代末の大恐慌によって経済的に破綻寸前に追い込まれ、それを立て直すために30年代からフランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策に基づく政権運営が推進される。それに伴い、宗教性そのものに対する抵抗が激しくなり、いわゆる「宗教的大恐慌」の時代を迎えていく。それから70年代までの約40年間、政治的にも宗教的にも、従来の聖書に基づいたピューリタン的世界観が影を薄くし、科学や理性に基づいた進歩主義的世界観(リベラリズム)が国をけん引するようになっていく。
そのリベラリズムの波は子どもの教育に対しても大きな影響を及ぼす。具体的には、62年の「エンジェル対ビタレ事件」で、連邦最高裁はニューヨークの公立学校で授業前の祈祷を違憲と断じた。翌63年の「アビントン学区対シェンプ事件」では、公立学校で聖書の言葉を暗記させることを義務付けたペンシルバニア州の法律を違憲とした。これによって、キリスト教は従来の地位を公教育では築けなくなってしまう。
70年代に入り、この流れはさらに加速していく。76年にジミー・カーター大統領が登場すると、キリスト教保守層は、自らを「福音派」と称するこの大統領に期待した。だが期待が大きかった分、彼の政策に対する保守層の失望はもっと大きなものとなってしまう。特に問題となったのは、79年に教育省を設置したことである。さらに、キリスト教系私立学校および保護者家庭への税控除措置を廃止する決定をしたため、既得権益を得ていたWASPに代表されるキリスト教保守層の家庭は、政府が米国をまったく異質の国家へと変質させようとしているのではないか、と疑念を抱くようになっていった。
祈祷、聖書の朗読・暗記などを公立学校で禁止する裁判所の判断、それからキリスト教系私立学校および保護者家庭への税控除措置の廃止。これらの世相を肌で感じた保守層は、一丸となってこれに抵抗しなければと思うようになっていったのである。
その彼らを束ね、80年にロナルド・レーガン大統領を生み出す原動力としたのが「宗教右派」と呼ばれるキリスト教宗教集団である。ここで生み出された流れが、今なお共和党大統領を支持する母体となり、今のドナルド・トランプ大統領をサポートしていることになる。
30年代からリベラル化した米国は、80年代から逆に保守化していく。ビル・クリントン政権下で少しリベラル寄りになったといわれているが、それは彼が民主党的には中道政策を採ったからであり、決して振り子が反対に振れたわけではない。それを一気に左へ持っていこうとしたのがバラク・オバマ前大統領であり、その政策に対するフラストレーションが一気にトランプ政権下で噴出していると思われる。
トランプ大統領は幸運にも2人の最高裁判事を任命する権利を得ることになった。そして前回詳述したように、「ロー対ウェイド事件」の判決を覆そうとするだろう。同時に、この公立学校での宗教性をめぐる争いもまた、保守層にとっては重大な案件となる。
ケンタッキー州の決断が吉と出るか凶と出るか。それはまだ分からない。いわゆる「キリスト教国アメリカ」での「選択科目としての聖書」を、決して日本の学校の「選択科目」と同一線上に語ることはできないだろう。「選択」をどうしても「必須」へ、60年代以前の米国へ戻したいと願う保守層は決して少なくないはずである。
日本では現在、道徳の教科化が問題となっているが、状況こそ違え、同じ論点がこのケンタッキー州の決断に透けて見えるのではないだろうか。こちらもしっかりと見守っていきたい。(終わり)
◇