「許し」と「赦(ゆる)し」。読み方は同じですが、中身やニュアンスが少し違います。「許し」は、「許可する」というような意味合いがあり、行為や行動の前段階でのことです。「赦し」は、すでに起こってしまった出来事や過ちに対して、「恩赦」をしたり、裁かずに受け入れることを指します。
適切な実例かどうか分かりませんが、人の前で講演をしたり、音楽の演奏や歌を歌ったり、何かを演じるときに、好意的ではない聴衆を前にすることがあります。プログラム上、私の名前が入っているのでステージに上がることができても、「こいつ何をするのか!?」と、聴衆のごく一部でも身構えている人がいるなら、緊張して固まってしまいます。
もし、身構えた人を喜ばせることができればいいのですが、逆に気に障ることをしたら、首を横に振られたり、「早く終われ!」というオーラを放出されたりして、蛇ににらまれた蛙のように黙殺され、それ以上何もできなくなるでしょう。
「許し」は、許容範囲の中においてのみ許されますが、それを超えたならば許されません。それは、私たちの日常生活の中でも経験済みだろうと思います。
「赦し」ならばどうでしょう。私の存在のすべてが赦され、認められ、何を言おうが、何をしようが好意的な眼差しで受け止められます。自分の持ち味を出し切れるばかりか、自分の持っているもの以上が引き出され、聴衆の反応は好意的で、笑ったり、泣いたり、拍手のオンパレードです。「赦し」には、ステージと会場を隔てるものはなく、一体になれます。「赦し」は、自分の能力が最大限に生かされる雰囲気です。
神様が与えられる「許し」と「赦し」は何でしょうか。聖書は、「すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません」(Ⅰコリント6:12)と語ります。
「すべてのことが許されている」。けれど、「すべてが益になるわけではありません」と書かれています。
神様は私たちを赦しておられますが、益にならず害になったり、痛い目に遭うことだったり、不幸になったり、致命的な失敗をするようなことは許されず、制限を与えられます。神様の「許し」は、痛い思いをしたり、致命傷を負ったりしないように、時に厳しく叱られます。
真の自由は、ちゃんとしたルールの上に成り立っています。車を運転するときに、道路交通法がなかったとしたら、常に事故に遭う恐れがあります。信号もなければ、右側通行か左側通行かも決まっていません。
しかし、道路交通法がしっかりあるので、安心して車に乗ることができます。ルールは必要なのです。
神様は、あなたが失敗しないように、傷つかないように、あらかじめ「これをしてはいけない!」「これをしなさい!」と教えられました。あなたを愛しているので、見て見ないふりはできないのです。
しかし神様は、モニターカメラで監視するように私たちを監視し、見張っているのではなく、幸せと安全を願い、「これを超えてはいけない!」と教えられても、その瞳は優しくほほえみ、愛の眼差しであなたを温かく見守っています。
神様の「赦し」の方はどうでしょうか。失敗してしまったとき、愛の眼差しは悲しい眼差しに変わるかもしれませんが、あなたへの愛は変わりません。
神様は、「罪を水に流す」ことはできません。罪は罪です。神様が罪を裁かないとしたら、その正義は地に落ちてしまいます。罪はどこに行ってしまったのでしょうか。
その罪のために、独り子イエス・キリストが十字架で罪を背負って死なれたのです。あなたの罪がどんなに大きくても、あなたがどんなに大悪党であっても、完全にあなたを赦し、1点のシミもなく聖(きよ)めてくださいます。
極めつけは、1度赦した罪は2度と思い出されることがありません。
人は、時々過去の失敗や罪を思い出します。しかし神様は、あなたが悔い改めた罪を完全に忘れ去ってくださったのです。何という解放感でしょうか。神様の「許し」はあなたを守ります。しかし、神様の「赦し」はあなたを自由にします。
ステージ上で、何をしてはいけないか、どうしたらいいかを知っていて、かつ、聴衆からすべてが赦され、受け入れられているとしたら、自由にのびのびと、あなたの能力のすべてを発揮できることでしょう。
あなたの人生は、あなたのステージです。神様は、スポットライトで出演者を照らすように、あなたに注目し、愛の眼差しであなたを応援しておられます。
あなたは最高の名優として、あなたに与えられた人生ステージの上で、神様の眼差しを意識しながら最高の演技をしてください。
良い1日でありますように。神様の祝福をお祈りします。
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