数年前、多忙なスケジュールの中、持病のぜんそくが悪化して、入院を余儀なくされました。医師から、「要緊急入院」と言い渡されたとき、私の頭は真っ白になりました。仕事が、二重にも三重にものしかかり、かつ重大な決断が迫られていた時期でしたのでなおさらです。
しかし、もしあの時、念のためと思って病院に行かないで無理をしていたら、今の私はなかったと思います。入院が決まった瞬間から、半強制的に休息せざるを得なくなりました。これは、神様が与えてくださった休息でした。「入院」という大義名分がなかったら、素直に休息できなかったと思います。
私の手元にあったものは、「携帯」と「聖書」だけでした。しかし、それだけで何不自由しませんでした。すぐに、仕事などで関わっている関係者すべてに携帯で「入院しました」とメールで知らせました。その瞬間、肩の荷が降りました。「この際、悩むことをやめて休息しよう!」と決めました。
イエス様は、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイの福音書11:28~30)と言われました。
イエス様が教えられた休息は、
① イエス様のもとに行くこと
② イエス様に学ぶこと
③ イエス様のくびきを負うこと
の3点です。
私は、入院期間において、「イエス様の3点セットの休息」を頂きました。
① イエス様が来られたのは約2千年前のクリスマス、場所はイスラエルです。時間と空間を超えなければイエス様のもとには行けないはずですが、祈りを通して、時空を超えてイエス様のもとに行くことができました。
イエス様は、すべての人の近くにおられます。後は、イエス様の存在を認め、受け入れ、近づくことです。
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(ヨハネの黙示録3:20)
② イエス様のもとに行ったら、イエス様と親しく語り合い、聖書と祈りを通してイエス様から学びます。イエス様から学べば学ぶほど、心が穏やかになり、心身ともに休まりました。
イエス様に学ぶと、「頑張り」というよろいかぶとが取り去られ、体の異変の一つ一つを敏感に感じるようになり、前より具合が悪くなったように感じました。おそらく、一生懸命頑張っていたことで気付かなかったカラダからのメッセージがよく聴こえてくるようになったからだと思います。これも、休息のために必要なプロセスだったと思います。
③ 昔イスラエルでは、親子の牛にくびきをかけて農耕具を引っ張らせて畑を耕しました。親牛は力がいります。しかし、子牛はくびきをかけて一緒に歩くだけです。
イエス様のくびきとは十字架です。イエス様が十字架の重たい部分を背負われました。私たちは、共に十字架を負いますが、重たくはありません。ただ十字架という1つのくびきにつながれて、一緒に歩くことが必要です。もし、自分勝手な別の方向に行こうとすると、「私」も「イエス様」も「他の人」も1つのくびきでつながれているので、痛い思いをすることになります。
また、くびきを外して、熱心さ余ってイエス様を追い越してしまうと、疲れて燃え尽きてしまいます。イエス様と共にくびきを負い、イエス様と歩調を合わせ、同じ方向に向かって一緒に歩くことです。ここに休息があります。
電車が自分勝手に走り出したら暴走列車になってしまいます。そんな電車が街中を走っていたら大変です。レールの上を、パンタグラフという集電装置で電線から電力をもらいながら走ることで、自由に、かつ力強く走れます。
私たちも、神様の言葉というレールの上を、祈りによって聖霊の力を頂きながら生きるときに、一番自由に、かつ力強く歩むことができます。同時にその状態が、私たちの霊・魂・体に休息を与えてくれるのです。それがイエス様のくびきを負うことなのです。
一番の休息は、「イエス様のもとに行き」「イエス様に学び」「イエス様のくびきを負う」ことなのです。
皆さんは休息していますか? 祝福をお祈りします。
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