3. 本書第7部「未完成の完成」と第8部「終わりの中に始まりが」
本書は、すでに確認したように、青少年時代からの事々を驚くべき記憶と的確な記録で描く大書です。しかし、過去の回顧としての宝の山であるばかりではありません。全体が8部で構成されている中で、最後の第7部「未完成の完成」と第8部「終わりの中に始まりが」に注目したいのです。
そこでは、1980年から94年まで、モルトマン先生が神学教授として最後の15年間をご自身の経歴の最高潮と見るか、それとも中高年の秋と受け止めるか、そうです、「私は年とったのか、それともより若くなったのか」との課題を直視し、描いています。
第7部「未完成の完成――生の挑戦」では、
第1章 新しい三位一体的思考
第2章 ギフォード講演(1985年)エディンバラにて――創造における神
第3章 中国への私たちの長い行進(1986年)
第4章 女性または男性として神について語る エリザベトとの共同の神学
第5章 生への新しい愛
ここでは、第1章における「新しい」、同じく第5章における「新しい」が目を引きます。
さらに、第8部「終わりの中に始まりが」においても、
第1章 終わりと始まりの祝い
第2章 新しい重要点
「新しい」が「始まり」と共に大切な位置を占めています。ここであらためて気付いたのですが、第6部のタイトル「新しい三位一体的思考の十字架のしるしにおいて」にも「新しい」が刻まれています。
神学教授としての最後の15年間だけでなく、モルトマン先生ご自身の歩み、そうです、存在そのものが「新しさ」「若々しさ」「日々の成長」に満ちている印象を強く受けるのです。蓮見幸恵先生が、「二〇〇三年四月、J・モルトマンは沖縄に来られました。那覇空港に降り立ったモルトマンは、生き生きとした姿で、『モルトマン招聘委員会』メンバーの一人ひとりと、熱い握手をかわしました」(『終りの中に、始まりが―希望の終末論』269ページ)と描いている通りです。
最後から現在を見る、新約聖書の終末信仰・終末論をそのまま生きておられるのです。聖書が啓示する新天新地の希望を仰ぎ見、その基盤に立って、あらゆる現実を直視し、逃げないのです。希望と忍耐の道を歩みながら書き、書きながら生きておられる姿に深い感動を覚えつつ、この1年、本書を読ませていただきました、感謝。
この1年、本書を読みながら、あの沖縄でのモルトマン先生ご自身、また蓮見ご夫妻との出会いをあらためて感謝しつつ、もう1つの恵みの出会いを思い起こし、恵みの新しさを味わっています。
モルトマン先生が沖縄を訪問された前後、遠藤勝信先生とメールのやりとりを始め、深められていました。その中で、モルトマン先生と遠藤先生の恩師、リチャード・ボウカム先生が旧友の仲であり、遠藤先生ご自身もモルトマン先生の講義に深い印象を受けたことなどを伝えてくださいました。これは、私にとって小さくない励ましでした。
そして、2016年晩秋、心のこもった添え書きと共に、遠藤先生から送られてきた『人生を聖書と共に:リチャード・ボウカムの世界』を読みながら心熱くしたのです。例えば、「『希望の神学』とそれに続くモルトマンの二つの大作(『十字架につけられた神』と『聖霊の力における教会』)は、聖書啓示の中心的なテーマを現代の世界と関連付けるための解釈的構造に私の目を開かせてくれました」とボウカム先生は記しておられます。
あの沖縄での短い出会い、そしてこの1年間の本書の通読を通して、私の素朴な理解は、モルトマン先生が聖書をメガネにすべてのことを直視し、思索しておられる事実。それは、聖書が証しする希望にすがって、与えられた場から逃げ出さず、耐えていく。そのことを可能にするのは、聖霊ご自身の導きに他ならない。
私は、モルトマン先生のうちに徹底的な聖霊信仰と徹底的な聖書信仰に生きる先達を見、励まされ、感謝するのです。それ故に、私に与えられた場、このクリスチャントゥデイの場から逃げない、希望と忍耐の道を歩ませていただきたいと願いつつ、本書の報告を閉じたいのです。
ユルゲン・モルトマン著『わが足を広きところに モルトマン自伝』(2012年、新教出版社)
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