3月に公開される映画「新地町の漁師たち」は山田徹さん(1983年生まれ)の初監督作品。第3回グリーンイメージ国際環境映像祭でグランプリを受賞している。福島県新地町の漁師たちを2011年6月から14年11月まで3年半にわたって撮影した記録映画だ。
東京都新宿区生まれの山田さんはキリスト教主義の自由学園(同東久留米市)、映画美学校(同渋谷区)を経て、2009年からドキュメンタリー映画製作会社である自由工房(現在は社名が変わって彼方舎、神奈川県川崎市)に勤務し、演出助手として羽田澄子監督に師事してきた。
どのような思いでこの映画を作り上げたのか、山田さんに聞いた。
――なぜ映像の世界に入られたのですか。
現実で起きている出来事をこの目で見たいと考え、学生時代はマスコミの仕事に興味がありました。やがて、ドキュメンタリー映画の方が自己表現の幅も広がると思い、映画の道に進んだのです。小学校時代、映画監督になりたかったので、その夢が実現して驚いています。
――3・11直後から福島を訪ねていると聞きました。現地へ足を運んだ理由を教えてください。
東日本大震災が起きたとき、僕は自由工房で仕事をしていました。27歳でした。強い揺れを感じて、すぐ外に飛び出しました。高層ビルが大きく揺れて、今にも倒れてきそうでした。人も公共機関も全てパニック。自分や家族、友人の生死について、また生活環境や社会について真剣に考えざる得なくなりました。
――震災から間もない現地はどのような感じでしたか。
新地町には、震災から約2カ月たったゴールデンウィークにボランティアで初めて訪れました。津波で流れてきたであろう船や家が田んぼの真ん中にポツンと残されている。瓦礫(がれき)が至るところに散乱している。ヘドロと塩水が混ざり合った生臭い匂い。テレビのフレームを超えた現実の大地がそこには広がっていて、圧倒されました。
――映画を作ろうと思ったきっかけは?
震災という出来事を自分の言葉として語りたかったからです。現地の実情を目にし、それをカメラで記録して、映画として描き、それを自分の言語として見いだすこと。これらは自分にとって全てイコールでした。カメラを手に取材をスタートさせましたが、その過程で放射性物質の汚染で漁業ができなくなった漁師たちと出会って、彼らの行く末が気になり、記録映画を撮ることにしたのです。
――映画を作る上で苦労した点を教えてください。
震災後の漁師たちは、魚のモニタリング調査と海の瓦礫撤去作業をする日々でした。こうした仕事は週2、3日しかなく、午前中で終わってしまいます。その後はいつ使うか分からない船や漁具を整備してから、パチンコや釣り、そして昼寝をするだけ。こうした無為な時間が震災後2年も続きました。一向に復興する気配のない、何も変化がない現実に、次第に自分の映画の終着点を見いだせなくなりました。そこで、「どうにかしたい」と感じた私は、漁師たちが希望を見いだす姿を映画として記録できないかと考えるようになり、それがついにこの作品として結実したのです。3年半、漁師たちに寄り添うことで見えてきた真実をぜひ感じてほしいです。
――最後に読者にメッセージを。
自分に与えられた働きをやめないこと、自分の言葉を見いだし続けること、真実を追うこと。そして誰でも、被災した方々のために祈り願うことはできます。無関心でいないというのが、彼らに対する大切な向き合い方だと思います。
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3月11日(土)〜24日(金)にポレポレ東中野(東京都中野区東中野4−4−1ポレポレ坐ビル地下)でロードショー。3月18日(土)~31日(金)は大阪・第七藝術劇場、3月19日(日)は札幌プラザ2・5、4月中旬はフォーラム福島、名古屋の劇場と各地で上映開始。全国劇場で順次公開。自主上映会も受付中。
■ ドキュメンタリー映画「新地町の漁師たち」:公式サイト・フェイスブック
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