明治の文豪、島崎藤村(1872~1943)は、母校、明治学院の校歌を作詞したことでも知られる。明治学院大学(東京都港区)の学生たちに、先輩である藤村のことを知ってもらいたいと10日、同大主催のイベント「島崎藤村を語る~人・作品・世界~」が開催された。
日本ペンクラブが企画協力して行われたこのイベントは、2015年に藤村とゆかりの深い長野県小諸市で行われ、好評を得たもの。日本ペンクラブは、言論表現の自由の擁護と、文学・文化の振興を目的とし、日本の文筆家で構成される一般社団法人だ。1935年創立とその歴史は古く、初代会長は藤村だった。
地方の文化力を深めていく目的で、2015年から「ふるさとと文学」という企画を起ち上げ、地域と作品のつながりを考えるイベントを開催している。これまで小諸市や秋田市で行ってきたが、東京での開催は今回が初めてとなる。
プログラムは2部構成で、第1部では、講談師の神田松鯉(しょうり)氏が、日本ペンクラブの専務理事を務める吉岡忍氏の脚本構成による約50分の作品「夜明けを開く~島崎藤村の人・作品・世界」を上演した。吉岡忍氏は、「『ふるさとと文学』では、『上映』ではなく『上演』ということにこだわりを持っている」と話し、「島崎藤村という明治学院を卒業した人が、どういう時代に生まれ、どういう小説を書いたかということをご覧いただければと思う」と語った。
この作品は、信州馬籠(まごめ)より上京し、明治学院に入学、浪漫主義詩人を経て、日本の自然主義文学を確立した藤村の足跡をたどる。日本の近代化の中で複雑な人間関係に悩まされた藤村を語るとともに、国際人であったと思わせる幾つかの出来事も紹介する。最後は、有名な言葉「涼しい風だね」で終了するが、神田氏の語りはそれを一層印象深いものにした。
第2部では、現代の日本を代表する2人の作家、浅田次郎氏と下重暁子氏が藤村について講演した。「藤村を語る」とのテーマで話した浅田氏は、藤村が好んで「簡素」という言葉を使っていることに触れ、「日本語というものは、大きな世界をどのくらい小さな言葉で表現することができるかということ。だから、いい日本語を書こうと思ったら簡素を心掛けなければいけない」と伝えた。また、手で字を書くことは、切り取ってなるべく簡素にしていく行為であるのに対し、パソコンで字を書く行為は、積み上げていくことで、古典をしのぐ文章を書くことはできないと語った。
浅田氏は、古典といわれる小説家たちのボキャブラリーの豊富さを話し、その文章がいかに優れていたかを紹介した。その中で、藤村が「新体詩」という新しい詩のスタイルを創出した功績を語った。浅田氏自身もその詩に親しみ、今でも暗唱できると明かし、「文学の母も、小説の母も『詩』であり、詩に親しむことが文学の土壌を形成する」と話した。ただし、ダイナミックな文章表現である小説に対して、詩はナーバスな精神。文学の土壌は共有していても、2つの資質は違っており、詩人の精神でダイナミックな小説世界を書くのは難しい。それを見事にやってのけた藤村を、浅田氏は「超人」と表現した。
次に浅田氏は、日本の近代文学に藤村がどのような影響を与えたか、自然主義作家としての側面から語った。浅田氏は、そもそもヨーロッパの自然主義は、キリスト教の呪縛から逃れて人間らしい文学を書こうというもので、そういった呪縛のない日本では、「自分のことをあからさまに書く」という方向に行ってしまい、これが純文学形成に至った日本文学の源流ではないかと推測する。その方向付けをしたのが藤村の『新生』であり、美しく、面白く、分かりやすいものであるはずの小説が、そこから外れたところで形成されるようになってしまったと指摘する。
このことを「藤村の功罪」と述べ、「日本の自然主義というのはこういうものだ、日本の文学の行方はこういうものだということを、藤村が提示してしまったのではないか、あるいは誤解を与えてしまったのではないかという疑いをずっと持っている」と明かした。その一方で、藤村の簡潔で美しい文章を称賛し、藤村がいなければ日本の文学は違うものになっていたと言えるほどの、近代日本文学の最大の偉人だと強調した。
続いて登壇した下重暁子氏は、「藤村と家族」とのテーマで、実際に小諸で取材したことも織り交ぜながら話した。大学時代に詩を専攻していたという下重氏は、『破戒』の「蓮華寺(れんげじ)では下宿を兼ねた」や、『夜明け前』の「木曾路(きそじ)はすべて山の中である」などを取り上げ、「私に言わせるとこれは詩人。こういった冒頭の一行は、詩人でなければ書けない。昔、詩人であったことを残して小説を書いた」と語った。
下重氏は、藤村の2つのタブーへの挑戦について言及した。その1つが『破戒』。自費出版したこの小説は、栄養失調により3人の娘が相次いで没するなど、決して豊かな生活ではなかった中で、部落問題というタブー視される問題に取り組んでいる。2番目は、近親相姦をテーマにした『新生』だ。この小説について下重氏は「家との闘い」という言葉を使い、藤村をはじめ、夏目漱石も森鴎外も、当時の文学者が「家」と闘っていたことを説明した。藤村も常に肉親というものがついて回り、そこから抜け出せないでいることを作品から感じると語った。
さらに、父親をモデルにした大長編小説『夜明け前』のテーマは、家族の問題そのものであり、このテーマを藤村は15歳の時から心の中に秘めていたのだという。家族制度といった古い体質から逃れ、新しい文学を始めるにはどうしても通らなければならないものだった。下重氏は、藤村は父の死を含め、複雑な家族、受け継いだ家族特有の体質などから逃れたいという思いから、家族をテーマにして書かざるを得なかったと語った。その上で、「私小説や、日本的な自然主義というのは、こういうところからも生まれてきたのではないかと思う」と話した。
下重氏は、「非常に近くにあるが、何も知らないのが自分の家族」だと言い、「日本の家族主義は、明治の時代から今も全然変わっておらず、相変わらず家族に縛られている」と語った。分かり合えない家族の姿は、戦後殺人事件が減少する中、逆に増加し続ける家族の中で起きる殺人件数から読み取ることができると話す。「家族から脱出し、個として自分を生きていくほど大変なことはない。これは藤村が生きた明治時代から始まっていて、家族の問題というのは厳しいものがあるとしみじみ感じている」と締めくくった。
藤村は、1887年に明治学院に入学し、その翌年に受洗している。1893年に教え子との恋愛事件で棄教することになるが、藤村が作詞した明治学院の校歌のフレーズ「霄(そら)あらば霄を窮めむ壌(つち)あらば壌(つち)にも活きむ」は、理想を高く持ちつつも、地に足をつけた生活をしていくという意味であり、松原康雄学長は、キリスト教による人格教育を建学の精神とする同大の教育に合致していると話した。また、同大では、藤村をゆかりとして、2006年、小諸市と「明治学院大学と小諸市との協働連携に関する基本協定」を結び、大学の地域貢献の在りようについてさまざまな取り組みが行われている。
この日参加した60代の女性は、「藤村の詩が好きで参加した。家族構成や女性関係など複雑な人生を知ることができ、面白かった。あらためて小説を読んでみたい」と感想を語った。