明治学院歴史資料館(東京都港区)は5日、同区白金台の白金キャンパスにある同学院礼拝堂が今年で献堂100周年を迎えたのを記念して、その設計者であり、またそこで結婚式を挙げた建築家のウィリアム・メレル・ヴォーリズに詳しい、(株)一粒社ヴォーリズ建築事務所史料・広報室長の芹野与幸(せりの・ともゆき)氏を講師に迎え、同礼拝堂で記念講演会を開催した。
講演に先立ち、同学院の小暮修也学院長があいさつ。「この礼拝堂は100年になるが、明治学院は150年。その前の53年について『明治学院と礼拝堂』という小冊子を作った」と、会場で参加者に配られた小冊子に言及。同礼拝堂を設計したヴォーリズの研究の第一人者である芹野氏を講師に迎えたと説明した。
続いて、明治学院歴史資料館の長谷川一(はじめ)館長は、「明治学院の礼拝堂は100年という人間の長寿に近づいてきている」と語り、「100年にわたって歴史的なポテンシャル(潜在力)を持つ建物を造ってくださったのがヴォーリズだ」と述べた。
講演者の芹野氏は、スライドで「建物が語りだす物語 明治学院チャペル献堂を覚えて」と題し、同礼拝堂にまつわる物語であるヴォーリズと一柳満喜子の結婚のエピソードを中心に、同学院の創立者の1人で米国長老派教会の宣教医であったJ・C・ヘボン博士らが日本宣教のために種まいた足跡を振り返った。
「ヴォーリズと一柳満喜子の結婚(1919年6月)は、広岡浅子の賛成がなければなし得なかった」と芹野氏は語り、昨年9月から今年の4月まで放送されたNHK連続テレビ小説の主人公のモデルとなった広岡浅子が、2人の結婚において果たした役割を指摘した。芹野氏によると、恋愛結婚が当たり前でなかった当時、2人の周囲ではその結婚に誰もが反対していたという。
広岡浅子は、ヴォーリズが一柳満喜子に紹介されたときに立ち会っていたと、芹野氏は述べた。2人は1918年に出会ったという。
「歴史には物語がある。自分の物語、自分との接点を考えていただくと、それがちょっと身近になるのではないか」と、芹野氏は130人を超える参加者に語り掛けた。
会場では、「一枚の結婚式記念写真が語りだす物語~1919年、明治学院チャペルにて~」と題した芹野氏の講演要旨が参加者に配られた。
「明治学院チャペルは100年の節目を迎える。学院の歴史を語るシンボルでもあるチャペルは多くの物語を私たちにもたらしてくれる。そこには、学院を学び舎として若き日を過ごした人々のそれぞれの物語があるだけでなく、チャペルが明治学院の顔として学院外の人々や社会に語り出す様々な物語がある」と、芹野氏はその要旨に記した。
「チャペルは、学校としての教育の器として建物であることを越え、学院創立の原点であるキリスト教をひろく学生や社会や地域に指し示す存在である」と芹野氏は続けて記した。そして、ヴォーリズとそのチャペルとの関わりとその時代背景について、次のように記した。
「明治学院にチャペル建設を計画した時、この建設計画に関与した人物、W・M・ヴォーリズは滋賀県の近江に拠点を据えた『近江ミッション』という日本における宣教活動を展開するユニークな人物に白羽の矢が立ったという。彼はいわゆる『お雇い外国人建築家』でなく、日本でのキリスト教伝道に一石を投じた信徒伝道者であった。彼が1908年に立ち上げた建築設計事務所は、海外の伝道団体のためにすでに教会や学校の設計を全国に展開していた。時代は大正デモクラシーがもてはやされ、日本人が海外の模倣でなく自らの意思で新しい時代の生活改善を模索していた」
「1919年6月、チャペルで建築設計に関わったW・M・ヴォーリズと子爵令嬢であった一柳満喜子との結婚式が挙行された」と、芹野氏はその要旨に記した。「この結婚式のことは当時の新聞でも大きく取りあげられ、明治学院の歴史を飾るひとつのエポックとして今日でも語り継がれている」
「この2人の結婚式にまつわる物語は明治維新に始まる日本の新しい時代の幕開けに遡(さかのぼ)り、学院創立にかかわったヘボンにまで話がつながる壮大なストーリーである」と、芹野氏は続けて記した。
「明治学院だけでなく日本全国に点在するキリスト教主義(ミッション・スクール)の建築を手がけ、自ら琵琶湖のまわりに独自のキリスト教運動を展開したヴォーリズ。そして不思議な偶然の出会いから多くの障害を乗り越えて実現した日本女性一柳満喜子との結婚は、単に一組のカップルの誕生の記憶に終わらず、日本のプロテスタント宣教の歴史に深くかかわったヘボンたちの宣教の足跡をも覗(のぞ)かせるできごとであった」と、芹野氏はその要旨で述べた。
芹野氏は講演の中で、一柳満喜子の父が慶応義塾大学でヘボンらから西洋について学んでいたと紹介。白井堯子著『福沢諭吉と宣教師たち 知られざる明治期の日英関係』(未來社、1999年)に触れ、英国国教会のアレキサンダー・ショー宣教師を通して、慶応義塾の創設者である福沢諭吉はキリスト教を受け入れていたと指摘した。
芹野氏はまた、「2人の結婚に立ちはだかったのが国籍という問題であった」と語り、結婚によって一柳満喜子は日本国籍を失い、夫の国籍に従うという当時の法制度の問題を指摘。関連する書籍として、グレイス・N・フレッチャー著、平松隆円監訳『メレル・ヴォーリズと一柳満喜子』(水曜社、2010年)に言及した。
「国籍と結婚に加えて、戦争という問題をヴォーリズと満喜子は乗り越えなければならなかった。そこにマッカーサーや天皇家が関わった」と、芹野氏は述べた。
ヴォーリズは日本と米国の戦争が始まる前に日本に帰化した。芹野氏によると、戦争の時代に、「皇族が戦中戦後、近江兄弟社を支援していたため、特高警察ににらまれてもつぶされなかった」という。現在の天皇もヴォーリズと親交があったことを、芹野氏は紹介した。
芹野氏によると、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサーは、米国カンザス州の同じ町で同じ年(1880年)に生まれ、東京で会うまで59年間会うことはなかったという。
1905年、ヴォーリズはなぜ日本にやってきたのかという点について、芹野氏は、ヴォーリズが大学2年の時、イエス・キリストを世界に伝えることを目的としたStudent Volunteer Movement(学生ボランティア運動)第4回大会に参加していたことを指摘した。
芹野氏によると、ヴォーリズは来日後、滋賀県で英語の教師を務め、課外活動としてバイブルクラスを始めたが、教育委員会からそのバイブルクラスをやめるように言われてやめたという。
ヴォーリズはその後、学校や教会、ホテルやオフィスなど幅広い建築を手がけたほか、メンソレータム(現在のメンターム)の販売や近江療養所の開設、教育活動を行った。
1964年、ヴォーリズは死去した。
「建物というのは、その空間で物語が始まる。この会堂はさらに新しい物語を語り出す」と芹野氏は述べるとともに、「日本に神の国をもたらすことを生涯目指していたヴォーリズの物語を語り継いでゆきたい」と語り、最後に「皆さんの物語」との接点を参加者に求めて講演を結んだ。