「ヘボン博士」の名で知られるジェームス・カーティス・ヘボン(1815~1911)の生誕200年を記念する礼拝が12日、明治学院礼拝堂(東京都港区)で行われた。明治学院大学と同学院同窓会が共催し、同窓生ら約100人が参加。記念礼拝の後には、昨年NHKのラジオ番組でヘボン博士について連続講座を受け持った、前明治学院学院長の大西晴樹教授が講演し、日本のプロテスタント宣教の草分けであったヘボン博士の信仰と功績をたどった。
ヘボン式ローマ字を考案したことで知られるヘボン博士は、横浜が開港した1859年に米国長老教会から、宣教医師として日本に派遣された。ヘボン博士の日本での33年にわたる貢献は、医療活動や辞書の編さん、教育活動など幅広く、明治学院はヘボン博士が横浜に開設したヘボン塾がその起源となっている。
記念礼拝でメッセージを取り次いだ、明治学院同窓生で東洋英和女学院大学名誉教授でもある陶山義雄牧師は、聖書の教えを総括した黄金律とされる「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7:12)が、へボン博士の信仰を貫くものであり、その延長が博士の宣教の精神「Do for Others(他者への貢献)」であることを語り、同学院も黄金律を建学の思想と位置付け、「Do for Others」を教育理念に据えていることを話した。
礼拝後の講演では、大西教授はまず、ヘボン博士を扱った昨年のラジオ番組について言及。ヘボン博士の最初の伝記を書いた作家ウィリアム・グリフィスのように、「君子ヘボン」「聖人ヘボン」といった近寄りがたい「聖人」目線ではなく、「ヘボンさんでも草津の湯でも、恋の病は治りゃせぬ」と庶民に歌われたように、「庶民」目線でへボン博士を見て、その業績や人間として抱えていた苦悩について紹介したかったと話した。大西教授によると、ヘボン博士は正式に按手(あんしゅ)を受けていない、「副宣教師」あるいは「宣教医師」であり、あえて「正宣教師」にはならなかったことで、片言交じりの日本語ではあったが、積極的に日本人とコミュニケーションが取れたという。
また、現在進んでいるヘボン博士の研究では、ヘボン博士の家系が、スコットランド長老教会の伝統的信仰を守り、4世代にわたり、実業界、法曹界、医学界に血縁的な紐帯(ちゅうたい)を持つ、いわゆる「華麗なる一族」であったことが分かってきているという。この他、大西教授は、5人の子どもを幼くして亡くしたヘボン夫妻と、唯一成人した息子サムエルとの関係が芳しいものではなかったことや、帰国後の妻クララの心の病気など、ヘボン博士の苦難についても話した。
ヘボン夫妻は1892年に帰国し、米東海岸のニュージャージー州イーストオレンジに「INKYO(隠居)」と称して住むが、1902年には妻クララが精神錯乱で入院してしまう。クララの病状はひどく、日本からヘボン塾生だった高橋是清や井深梶之助らが見舞いに来ても会うことができないほどだったという。1906年にクララは88歳の生涯を閉じるが、大西教授は「65年間、クララと『一心同体』といえるほどいつも一緒におり、互いの目標に向かって生きてきたヘボン博士は、クララの悲惨な病状にどんなにつらかったか、またその死がどんなに悲しいものだったか」と話した。
それでもヘボン博士は、姪の娘に宛てた手紙で自分が置かれたつらい状況を語りながらも、「真の幸福は、私たちが神の子どもであり、神が私たちの中に生きていることを知り、そして、神と共に生きるという希望の内にあるのです」と、手紙の最後に付け加えることを忘れなかったという。大西教授は、「『神と共に生きるという希望』という言葉を使って、悲しさに耐え得るような心のありようを私たちに教えてくれる」と述べ、「死」というものに対しても、ヘボン博士は自分の心のよりどころをしっかり持っていたと語った。
大西教授は英国の社会経済史が専門だが、同学院創立150周年の時期に学長・学院長を務め、その間、創設者の話をしている中でヘボン博士の虜(とりこ)になってしまったという。大西教授はヘボン博士について、「日本におけるプロテスタント宣教の草分けであり、私たちに宣教の可能性を与えてくれた」と語るとともに、「奉仕の精神の草分けでもあり、私たちはヘボン博士を通して『他者への貢献』ということを学んだ」と語った。そして、「ヘボン博士が日本に来てくれて本当によかった。神学など難しいもので福音を伝えるのではなく、辞書など分かりやすく多くの人が理解できるものでキリスト教信仰を日本に伝えてくれたことが素晴らしい」とヘボン博士の功績をたたえた。
現在、同学院大キリスト教研究所では、ヘボン博士の研究が進んでおり、新しいヘボン像が発掘されてきているという。大西教授は、「人間ヘボン」が今後ますます知られるようになるだろうと期待を寄せた。