明治学院の源流の一つである「バラ学校」を支えた2人の米国人女性教師の書簡を翻訳してまとめた『バラ学校を支えた二人の女性―ミセス・バラとミス・マーシュの書簡―』が3月、同学院歴史資料館の資料集第10集①として刊行された。バラ学校を支えた、ミセス・バラ(Lydia Ballagh)とミス・マーシュ(Bell Marsh)の日本から米国へ宛てた書簡には、バラ学校やそこで学んでいた生徒たちの様子、当時の横浜居留地周辺の町並みなども記されており、これまでほとんど研究されてこなかったバラ学校の実態を垣間見ることができる貴重な史料となっている。
バラ学校は、医療宣教師として来日し、ヘボン式ローマ字の創始者として知られるヘボン博士が開いた私塾「ヘボン塾」を、1876年1月に宣教師J・C・バラが受け継ぎ、横浜居留地39番で運営した学校。80年には東京・築地に移り、「築地大学校」と改称。さらに83年には、横浜・山手の先志学校と合併して、4年制の大学と2年制の予備科を備える「東京一致英和学校」となった。予備科は後に「英和予備校」となるが、86年に「東京一致英和学校」「英和予備校」、そして築地にあった「東京一致神学校」が合併し、明治学院が設立された。
本書は2部構成となっており、第1部はJ・C・バラの夫人であるミセス・バラの書簡、第2部はバラ夫妻と共に生活し、バラ学校で教鞭を執ったミス・マーシュの書簡となっている。日本語の翻訳文だけではなく、ミセス・バラの書簡については英語の原文も収録。バラ学校で子どもたちに教えた歌や詩、東京の路上風景、家庭での様子、ミセス・バラが訪れたという鎌倉大仏の図版も掲載されている。
ミセス・バラの書簡は、米国長老教会女性海外伝道協会の機関誌『Woman’s Work for Woman』と、同協会の子ども向け機関誌『Children’s Work for Children』に1877〜79年に掲載された報告書。一方、ミス・マーシュの書簡は、来日後間もない時期に家族や親類に宛てた完全に私的なもの。機関紙の掲載を念頭に置いて書かれたミセス・バラの書簡と違い、ミス・マーシュの書簡には、女性宣教師としての使命感と同時に、戸惑いや不安、バラ夫妻に対する感情などが素直に吐露されている。
最初の夫を南北戦争で亡くし宣教師を志したミセス・バラは、73年に超教派の女性組織である米国婦人一致外国伝道協会の派遣により、横浜のアメリカン・ミッション・ホーム(共立女学校)の教師となる。75年にJ・C・バラと結婚。バラ学校を支えるだけではなく、ヘボン夫人が74年に開始した住吉町小学校も受け継ぐ。また、日本の近代保育事業の先駆けとなる、横浜の茶葉加工工場(通称・お茶場)で働く女工のための託児・保育施設「お茶場学校」を開設するが、84年、休暇帰国中に肺炎を患い急逝してしまう。
一方、ミス・マーシュは、76年10月に米国長老教会女性海外伝道協会派遣の女性教師として横浜に着任。バラ夫妻と共に生活をし、バラ学校と住吉町小学校で教鞭を執り、伝道活動も行った。79年にバプテスト教会の在日宣教師ポート(Thomas Pratt Poate)と結婚し、バプテスト教会に転籍。その後、宣教師夫人として、仙台、盛岡など東北地域の開拓伝道に力を尽くし、92年に帰国した。
明治学院歴史資料館は、同学院が設置する学校の歴史に関する資料や、資料に関する情報の収集・管理を行っており、その活動の一環として資料集の発行を行っている。本書は24冊目の資料集となる。『Children’s Work for Children』には、ミセス・バラによる書簡がまだ多く残っており、今後それらの書簡も翻訳し資料集として発行する予定だという。
明治学院歴史資料館資料集第10集①『バラ学校を支えてた二人の女性―ミセス・バラとミス・マーシュの書簡―』は、同館で販売している。定価は税込み800円。これまで発行された過去の資料集も販売しており、詳しくは、同館(電話:03・5421・5170、FAX:03・5421・5409、メール:[email protected])まで。