ある時、里深兄弟が、「私はメッセージを聞いて、祝福を祈るようになりました。会うすべての人の祝福を祈り、最近は野良猫や野良犬を見ても、野の草や木々を見ても、祝福を祈っています」と話してくれた。
その話を聞くまでは、「祝福を与えなさい」と説教しても、私の祝福は気まぐれだった。
ラジオ放送「希望の声」の録音に行く日、彼の話を実行してみようと決心し、大阪駅で降りて、朝日放送のスタジオまで歩くことにした。駅の北側の歩行者はそれほど多くない。出会う人々の祝福を祈るためには、ちょうどいいと判断した。見かける人ごとに、心の中で「祝福がありますように」と祈りつつ、プラザホテルの前まで来た。「このホテルに宿泊する人々に祝福がありますように。働く人々にも祝福を」と祈った。また当時、朝日放送のスタジオの下には日産自動車のショールームがあり、ちょうどコンパニオンがシーマを初老の紳士に説明していた。売り込みが成功し、紳士が高級車を買えるよう祝福した。
録音を終えての帰りは、生駒駅から学院まで裏道を歩いた。壮大な祝福の実験を続けるためだ。大きな邸宅が多い道であり、犬もいるし、猫とも会う山道だから、ちょうど良かった。この家に祝福を。犬が吠えるが祝福あれ。庭木にも山にも、ともかく「祝福」という単語以外は使わないほどに、祈り願いつつ歩いた。
家に帰り、不思議な気持ちになった。失ったものは何もなく、心が今までの倍以上に大きくなった感じがした。祝福は与えれば与えるほど、大きくなることを知った。まさしく「受けるよりも与えるほうが幸いである」(使徒20:35)と聖書にあるとおりだ。
ある誕生日の朝、祝福ということばが突然聞こえ、聖書を三ヵ所開いた。
あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。(創世記12:1‐3)
ユダヤ人の祖であり、信仰の父である、有名なアブラハムへの約束である。
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから購い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者は、すべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。
このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。(ガラテヤ3:13‐14)
その約束が、イエス・キリストの十字架のゆえに、聖霊によって私にも与えられた。
悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。(Iペテロ3:9)
ただで受けた祝福だから、無条件で与えるのである。
沖縄のホテルの部屋で餅を食べた時、奥歯に被せていた金冠にくっつき、歯がだめになった。奥中歯科で治療を受け、たまたま最後の患者だったので、応接間に通された。その時、だれが来ても吠える犬なのに、榮牧師には吠えなかったと家族は驚いた。そしてイエス・キリストに心を開き、信じた。
私は犬に吠えられることが少ない。それだけのことで、喜んで迎えてくれる家も数軒ある。祝福の雰囲気は動物にも伝わることを知り、ますます祝福を祈ることに徹している。
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。(Amazon:天の虫けら)