どういうわけか、今日の私は、東京に滞在していた時(1949年)の事に思いを馳せています。2階建ての宿舎の窓から遠方に、かの有名な冠雪の富士山の雄姿が見晴らせたのですが、もっと近くで見たいと常々思っていました。そして、幸いにも、その機会が巡ってきました。ちょうどその地域へ開拓伝道の一環として、調査旅行に行くことになったからです。
あの時の興奮は、今でも忘れることができません。その聖なる山の麓の宿に身を落ち着けたとき、胸がときめきました。日がとっぷりと暮れ、あたりが闇に包まれた頃に着いたので、その時は何も見えませんでしたが、暗闇の中にも、山が巨大な傘のように間近にそびえ立っているのを、肌で感じ取ることができました。
翌朝、外を見てみました。そこに富士山はありません! 青みを帯びた灰色の雲があたり一面を覆い、毛布のように垂れ込めています。その向こうに山があるはずなのに、と信じられない気持ちでした。朝食を終えて出掛けようとした、その時です。霧が晴れ、霞が消えました。すると、富士山が奇跡的にその姿を現したのです! あたかも、芸術家であられる神様が地上に降り立って、私たちのためにカーテンを引き上げてくださったかのように、山は目の前にありました。
それから数年後のことです。一時休暇で米国に帰郷する折に、スイスのアルプスに立ち寄りました。高地にある小さなバイブルスクールで1週間過ごしましたが、大きな渓谷が視界を遮っているらしく、世界的名峰であるユングフラウの姿は目にすることができませんでした。4日が過ぎても、山の頂がそこにある兆しさえ見当たりません。
しかし、ある朝、雲の帳(とばり)が上がり、目の前にユングフラウが姿を現したではありませんか! それは、それは、息を呑むような素晴らしい姿でした。キリリとする山の空気とともに、その雄大な眺めには筆舌に尽くせないほどの感動を覚えました。
皆さんも、このように感動し興奮して、言葉にできないような瞬間を経験したことはありませんか。例えば、聖書の御言葉が、よく知っている御言葉であっても、なじみでないものであっても、ある時、ふと心に強く響いてくることがあります。そこから、新たな平安が与えられ、新たな力が漲(みなぎ)り、人生に新たな意味がもたらされる時があるでしょう。
それは劇的な瞬間と言えます。そんな時には、ひと言では言い表せないような大きな喜びを味わうでしょう。心の奥深く、浸み込むような喜びを。美しい山を見ても、そのうち見飽きてしまい、見慣れてくるうちに、新鮮な感動や最初の興奮が徐々に薄らいでいくことも、きっとあると思います。でも、神様の御言葉は違います。
何度も、何度も、胸を打ち、心を揺さぶり、新鮮に響くのです。そのつど、あなたの心にぴったりの御言葉で、あなたの必要を満たします。例えてみれば、砂漠の中のオアシス。渇いた心に霊の水をもたらします。夜が明けて輝き出す昼の明るさよりも、さらに明るく、御言葉は私たちの心を照らしてくださいます。
「そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる」(イザヤ58:8)
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【書籍紹介】
ミュリエル・ハンソン著『蜜と塩―聖書が生きる生活エッセイ』
読んでみて!
一人でも多くの方に読んでいただきたいエッセイです。聖書を読んだ経験が有る、無しにかかわらず、著者ファミリーの普段着の生活から「私もそのような思い出がある」と、読者が親しみを抱くエッセイです。どなたが読んでも勉強になります。きっと人生の成長を経験するでしょう。視野の広がりは確実です。是非、読んでみてください。
一つは、神を信じている者が確信を持って生きる姿をやさしく、ごく当たり前のこととして示しているからです。著者は、日本宣教のため若き日に、情熱を燃やしながら来日しました。思わぬ事故のためにアメリカへ帰らなければなりませんでしたが、生涯を通して神への信頼は揺るぎませんでした。
もう一つは、日常の中に働いている聖霊のお導きの素晴らしさを悟ることができるからです。私たちの日常生活が神様のご意志のうちに在ると知ることは、安心と平安を与えるものです。
さらに、著者のキリスト者生活のエピソードを通じて、心が温まるものを感じます。私たちの信仰生活に慰めと励ましが与えられます。信仰が引き上げられて、成長を目指していく姿勢に変えられていく自分を発見するでしょう。
長く深く味わうために、急がずに、一日一章ずつでもゆっくりと読んでみてはいかがでしょうか。お薦めいたします。
ハンソン夫妻の長い友 神学博士 堀内顕
ご注文は、全国のキリスト教書店、Amazon、または、イーグレープのホームページにて。
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