1924年4月19日。シュヴァイツァーは、再びランバレネに到着。今回は、夫人が健康を害しているため、オックスフォード大学学生ノエル・ジルスピーが同行した。
到着して目にしたのは、想像をはるかに超えた荒廃だった。残っていたのは、小さな波形トタンのバラックと竹小屋の縦木の骨組みだけだった。この2つの建物も、シュロの葉で覆った屋根がひどく壊れていて、日光と雨が入るようになっていた。
7年間の留守の間に、建物は全て腐り、病院から「ドクトルの家」に続く道は、雑草とつる草に覆われていた。あのヨーゼフの小屋もなくなり、彼の姿もないので尋ねると、彼は戦争が始まって間もなく、薬品を奪いに来た黒人兵士と乱闘になり、射殺されたということだった。戦争の爪痕はここにもあった。
3日目にシュヴァイツァーは、若い同伴者と共にカヌーに乗り、遠くの村まで漕いで行った。そして、そこに住む昔の友人たちにあいさつをし、65個のレンガをもらって帰り、一番ひどい屋根の穴をふさぐことができた。
そうしている間にも、再びドクトルが戻ったということを聞きつけて、以前のように患者たちが押し寄せてきた。マラリア、心臓病、ハンセン病、眠り病、ヘルニア、そしてあらゆる種類の腫瘍――に苦しむ患者が運ばれてくる。
幸い、これらの患者の中に黒人の材木商がいて、彼は治療の礼として数人の人夫を派遣してくれたので、建物は修理され、薬局と診療所が再び使えるようになった。シュヴァイツァーは、診療の間にレンガをもらいに村から村へと回った。
その頃、彼は足に腫瘍ができて靴がはけず、ギュンスバッハではいていた木のサンダルで痛みをこらえて歩かねばならなかった。
以前ここに来て手伝ってくれたあのオイエンボも姿を見せないので尋ねてみると、彼はある木材商に雇われたが、酒と賭け事に夢中になり、姿をくらましてしまったということだった。シュヴァイツァーは悲しく思った。
幾月か過ぎたとき、シュトラスブルクから1人の看護師がやって来た。この上ない喜びであった。この時、シュヴァイツァーは、その力をほとんど使い果たしていたのである。また、それから数日後、蒸気船の信号を聞いて、彼はカヌーに飛び乗った。甲板から、1人の背の高い若者が叫んだ。
「ドクトル、あなたはもうお休みになれますよ! ぼくが一切やりますから」
1分後に、たくましい手が彼の手を握った。この若者は、ドクトル・ネスマンといい、シュトラスブルクの医学生時代の友人の息子であった。この日から、彼はシュヴァイツァーの片腕となって彼を助けた。続いてアルザスから第2の看護師が到着。そして、スイスから第2の医師ドクトル・ラウテンブルクがやって来て、シュヴァイツァーを喜ばせた。
さらに、スウェーデンの友人からモーターボートが贈られ、何よりもありがたい大工がやって来たのである。腕もよく誠実な男だった。こうしてシュヴァイツァーは、念願の10部屋の家を建ててもらうことになった。
彼は、現地の黒人たちと交流する才能もあり、仕事はスムーズに進んだ。また、以前妻の病気を治してもらった白人の木材商は、感謝のしるしに2人のきこりを送ってきたので、大きな木を切って柱を作ることができたのであった。
そのうち、次の危機が病院を襲った。赤痢の流行である。シュヴァイツァーは、少し前から伝染病患者には隔離された宿舎が必要だし、神経病患者には小部屋が必要だと感じていた。
そこでこの際、もっと広い場所に病院をそっくり移す計画を発表した。それに先立って、彼は密かにある場所を見に行き、心に決めていた。川から遠くない広い谷が病院に適した敷地を広げていた。また、その上のゆるやかな斜面は、職員の宿舎を建てるのに適しているようだった。彼は地区司令官に土地の使用を申請した。
3カ月かかって敷地ができると、病院は徐々に移ることになった。そして建物は、一軒一軒と建っていき、通りができ、1つの村ができた。そんなある日、伝道所でよく見かける黒人の女の子が、エプロンの中に何か入れて持ってきた。
「これ、オイエンボからドクトルにって」。それはいく粒かの野菜の種であった。オイエンボは遠くに旅立つとき、この宝物を託して行ったとか。彼はここを忘れていなかったのである。
シュヴァイツァーは、病院の職員たちとジャングルの中に菜園を作り始めた。巨木を切り倒し、土をならすと、そこにキャベツやエンドウ豆の種をまいた。翌年になるとキャベツもエンドウ豆も芽を出し、次第に大きく育っていった。
彼は菜園の周囲に果実をつけた木を植え、果樹園を作った。皆はこの場所を「エデンの園」と呼んだ。
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<あとがき>
信仰偉人伝を読んでくださり、また温かな励ましをくださった読者の方々に心より感謝申し上げます。ささやかな感謝のしるしとして、今回から<あとがき>として短い言葉を贈らせていただきたいと思います。
アルベルト・シュヴァイツァーとはどんな人でしょうか。私は中学生の時、学校の図書館で彼の伝記を読むまで、彼の偉大さが分かりませんでした。彼は優れたパイプ・オルガン奏者であり、哲学者、神学者、思想家としても世界的権威を持っていました。
それであるのに、そうした才能をかなぐり捨てるかのように、30歳であらためて医学を学び、見捨てられたアフリカ奥地の病人を救うために生涯をささげたのです。この行為の底には、「強い者は、犠牲となっている弱者(動物も含む)に対し、つぐないをしなければならない」という信念があったのです。
そんな彼を神様は導き、ついに「生命への畏敬」という万人のための思想とめぐり合わせたのでした。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。派遣や請負で働きながら執筆活動を始める。1980〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、1982〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、1990年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)、2003年『愛の看護人―聖カミロの生涯』(サンパウロ)など刊行。動物愛護を主眼とする童話も手がけ、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で、日本動物児童文学奨励賞を受賞する。2015年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝の連載を始める。編集協力として、荘明義著『わが人生と味の道』(2015年4月、イーグレープ)がある。