「救わんがために救われてある」。これは山室軍平がよく口にしていた言葉と聞いています。私が救われたのは、他の人に救いが及ぶためという自覚は大切です。
私のような者が救われたのだからあの人が救われないはずはない、ということで受けた恵みを流していくことが伝道です。恵み、祝福をこの私で止めてしまわないで流していくのです。Channel of grace恵みの水路、回路としてこの私が召されているのだとの思いを旺盛にしましょう。
イスラエルは最も弱小であり、無に等しい存在でした。それなのに列強や優秀な存在が選ばれず、イスラエルが選ばれたのは、強き者の傲慢を打ち砕き、いと小さき者を愛し給う神の御心を世界に知らしめるためでした。しかし、自分たちが選ばれたのは、自らの資質が優れているからだと錯覚したのでした。この誤まれるエリート意識のゆえにイスラエルの民は神から捨てられてしまいました。
私たちは同じ轍を踏んではなりません。「にも拘らず」救われ、祝されてある恵みを素直に受けると共に、それを周囲へと流して行かねばなりません。
そう、流していくのです。受けるだけで何処にも流さないので魚一匹住まない「死海」となったのに対し、ヨルダン川からの水を受けてまた流す「ガリラヤ湖」は世界でも有数の透明度をもつというではありませんか。
私も受けるだけで流すこと少なきゆえに濁っていることを告白せねばなりません。であればこそ透明度を増して下さいと祈らざるをえないのです。(いつになく謙遜という勿れ!)
一体、人間の力の神秘は神の道具として用いられるという性質にあります。自分でも意識しないことなのですが、神の憐れみによって役立つものとされる、そこに人知を越えた不思議が存在するのでしょう。
「救わんがために救われてある」。用い給う神に向けて心を開いて行きましょう。
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山北宣久(やまきた・のぶひさ)
1941年4月1日東京生まれ。立教大学、東京神学大学大学院を卒業。1975年以降聖ヶ丘教会牧師をつとめる。現在日本基督教団総会議長。著書に『福音のタネ 笑いのネタ』、『おもしろキリスト教Q&A 77』、『愛の祭典』、『きょうは何の日?』、『福音と笑い これぞ福笑い』など。
このコラムで紹介する『それゆけ伝道』(教文館、02年)は、同氏が宣教論と伝道実践の間にある溝を埋めたいとの思いで発表した著書。「元気がない」と言われているキリスト教会の活性化を期して、「元気の出る」100のエッセイを書き上げた。