「伝道」 それは文字どおり道を伝えることです。この「道」というのは日本でも生き方を示すものとして大切な言葉となっています。
茶道、柔道、剣道、華道、弓道などそれぞれの手だてを通して生きる道を究めていくのです。あっ今、道を極めると言いましたよね。道を極める、これ極道となってしまいます。ウーン。
王道と言えば堂々とした人生を歩む目標となる生き方でしょう。
国道、県道などは別として道は生きる道そのものに通ずるゆえ大切にしてきた言葉なのです。
キリスト教ではアジアの漢字圏で宣道、講道と言って神の言葉を語る大切さを伝えています。宣道といって説教と言わないのは道の意味を弁えているからでしょう。
教えは卒業がありますが、道は歩みつづけるゆえ終わりということがありません。「ああ、あの聖書の教えはもう分かった」と言って卒業してしまう。キリスト教という言い方も教えと書くからいけないのかな。宣教、説教、キリスト教、みんな「道」ということからとらえなおしをせねばならないかも知れません。
主イエスご自身「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われました(ヨハネ一四章6)。
使徒言行録でも「主の道」(一八章25)、「神の道」(同)という言葉が出てきます。そしてキリスト教のことを「この道」と言ってダイナミックな現実を浮かび上がらせています(九章2、一九章23、二二章4、二四章12・22)。
これらを列挙して分かることは「この道」という言葉を使う時はいずれも厳しい批判、激しい迫害にさらされた状況下ということです。そうした中でも福音が拡がっていく。それが「キリスト道」というものでしょう。
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山北宣久(やまきた・のぶひさ)
1941年4月1日東京生まれ。立教大学、東京神学大学大学院を卒業。1975年以降聖ヶ丘教会牧師をつとめる。現在日本基督教団総会議長。著書に『福音のタネ 笑いのネタ』、『おもしろキリスト教Q&A 77』、『愛の祭典』、『きょうは何の日?』、『福音と笑い これぞ福笑い』など。
このコラムで紹介する『それゆけ伝道』(教文館、02年)は、同氏が宣教論と伝道実践の間にある溝を埋めたいとの思いで発表した著書。「元気がない」と言われているキリスト教会の活性化を期して、「元気の出る」100のエッセイを書き上げた。