私が初めて松本頼仁牧師にお会いしたのは一九四九年五月の事でした。当時、私は東京駅前の中央郵便局で進駐軍総司令部民事検閲部(CCD)の翻訳として働いていました。一階は、全逓信労働組合の本部で、日本全国の官公庁労働組合に檄をとばして、今まさに史上初のゼネスト突入をめざして、共産党の赤旗が揺らいでいました。ところがその同じ階段を四階まで上がると、雰囲気は正反対の別世界となり、進駐軍総司令部民事検閲部があったのです。此処は自由で楽しい職場であって、昼は階段にコーラスが響き、屋上でダンスの練習が盛んでした。私は、東京大学入学後すぐ休学してこの部局で翻訳として働いていました。
そんなある日、新しく入って来た方がありました。楽天的で明るく魅力的な目をしておられる方でした。この方はとても素晴らしくて好ましいお方でしたが、ただ一つ心配な事がありました。それは、仕事をしながらよく、コックリ、コックリと居眠りをされる事でした。私達の職場は給与も良く楽しい職場でしたが、合理的で、FIREと言って実績が上がらないと馘首される事だけが職場の皆の気がかりでした。この陽気な方も、それをご存じのはずなのに、その点においてもまた鷹揚でした。私は羨ましくも、心配にもなりました。其処でこの方のために、私の収穫の中から少し、この方の材料の中に、内緒で入れたのです。――この鷹揚な方が、松本頼仁牧師でした。夜はきっと牧会のためのお仕事のために、昼は眠かったのでしょう。それなのに先生の生活は、楽しさそのものの様でした。――私の一生を変えてしまった神様との出会い、それがやがて、この方を通して始められた事を思い出しながら、私のこの時の秘密の行いが、神様の御心にそったのかも知れないという事に思いを致しながら、今は天に召された牧師を懐かしく思い、この四十年間、誰にも語らなかったこの小さな秘密を、今思い出しているのです。
青年会に、タクトを振ってキリストを示して下さった方、そのひたむきに純粋な、永遠の青年、松本牧師の情熱を浴びて、私達は、他に比類のない交わりの世界を知りました。「皆誰でもね、走れない時があるんだよ。そんな時にはね、歩くんだよ。そうして歩く事も出来ない時にはね、じっと止まっているんだよ」若さの故に落ち込んだスランプの時、そう言って私を力づけてくれたお方。その先生が、(父親が信仰を得て帰られた)アメリカの国へと、勉学のために去ってしまわれた時、夕闇迫る横浜港の岸壁に、教友とともに腰掛けて呆然として、先生が乗っているアメリカ行きの沖の貨物船を、眺めていました。
その後、私が教会から離れて三十年余りの歳月が過ぎ、私が本当に困った時、当時鶴川教会に居られた松本牧師から便りが来ました、「オイコドメオー(教会を建てよう!)」と。牧師を通してイエス様が再び召されたメッセージでした。感謝のうちに教会に戻って恵まれた二年後、自動車事故の結果、鶴川に通えなくなり、自宅に近い教会へと転出した時、年取った牧師の後姿を見ながら、親離れする子供の様に、「御免なさい」と心に手をあわせて離れました。――淡白で、私にとっても親の様に、一方的に与えて下さっては、去って行かれたお方でした。