エルサレムは、観光化されすぎていたが、聖書の上を歩くようで、十五歳の時から聖書に親しんできた幸いを感謝した。ガイドの説明を聞けなくても、聖書の語りかけを直接聞きつつ歩いた。
エルサレムでの自由時間は、旧エルサレムの城壁の上を、三時間かけてゆっくりと歩いた。朝は早く起きて、ゲッセマネの園まで行き、主が祈られたという大理石の岩で十分間も祈る特権を体験した。
エルサレムでの最後の日、朝三時に起きてホテルを抜け出し、主が歩かれた十字架の道を祈りつつ歩いた。人っ子ひとりいない石畳を行き止まりまで行き、帰路の街灯の光に復活の主を身近に感じた。「主は今、生きておられる、わが内におられる。すべては主の御手にあり、明日も生きよう、主がおられる」と、涙の流れるままに歩き続けた。
テルアビブ空港への早朝のバスで、涙がどうしてこんなに流れるのかと不思議に感じるほど泣いた。鳴咽を気づかれないように、ハンカチで抑えながら涙した。最初の聖地への旅は、出生から幼い日の悲しみや悲惨さ、母との別れ、死別のつらさ、挫折や劣等感などすべてを洗い流した旅だった。男は泣いてはいけないと育てられ、歯を食いしばって耐えてきた気持ちの張りが溶かされ、解放されていくのを感じた。
翌年もまたシナイ山に立った。ガリラヤの春は、「野の花を見よ。空の鳥を見よ」と、花咲き乱れ、さざ波寄せる岸に立つ、生ける主との出会いの連続だった。
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榮義之(さかえ・よしゆき)
1941年鹿児島県西之表市(種子島)生まれ。生駒聖書学院院長。現在、35年以上続いている朝日放送のラジオ番組「希望の声」(1008khz、毎週水曜日朝4:35放送)、8つの教会の主任牧師、アフリカ・ケニアでの孤児支援など幅広い宣教活動を展開している。
このコラムで紹介する著書『天の虫けら』(マルコーシュ・パブリケーション)は、98年に出版された同師の自叙伝。高校生で洗礼を受けてから世界宣教に至るまでの、自身の信仰の歩みを振り返る。(Amazon:天の虫けら)