「全くやっていられないヨ!」と思わしめられることが屡々(しばしば)あります。電話一本で一日の予定が狂わされ、ドアホンがピンポンと鳴ることで中断させられることも往々にしてあるのです。キリスト者とは愛による即興曲を演ずる存在としてプロでなくてはなりません。
それにしてもこの世で生きる以上、約束もありスケジュールもはずせないものが多々あります。そういう時に限って「善きサマリア人のたとえ」などが思い出されるのです。
どうすればよいのでしょう。生命に関わることを優先していくことでしょう。その判断を求められているのが私たちの悩みであり、喜びであるのです。優先順序はその人の価値観です。
さっき言った「善きサマリア人の譬え」(ルカ一〇章25―37)では、強盗に襲われた旅人は「この人を見て見ぬふりをしたら、その人に何が起こるだろうか」と考えたのでした。これに反し、祭司、レビ人は「私がこの人に関わっていたら、私がどうなってしまうだろう」と考えたに違いありません。
そんなことを考えると伝道は、どの相手に合わせていくことなのだろうかと思わせられます。
主イエスが「長血をわずらった婦人」を救った物語の中で「自分の内から力が出て行ったことに気づいた」と語っています(マルコ五章30)。
全く、自身の内から力が出て行くような倦怠感、脱力感はいかんともしがたいものがあります。
でも、この脱力感というか、自分の中から力も抜き取られるような感じがする、時間も奪われる気がする、そういうことが伝道に通じていくのではないでしょうか。
「自分の内から力が出て行ったことに気づいた」という思いを相手との交渉、交接、交流を通して感ずるのなら、それは大したことです。なぜってその時こそ、主イエスの心を心とすることになるのですから。
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山北宣久(やまきた・のぶひさ)
1941年4月1日東京生まれ。立教大学、東京神学大学大学院を卒業。1975年以降聖ヶ丘教会牧師をつとめる。現在日本基督教団総会議長。著書に『福音のタネ 笑いのネタ』、『おもしろキリスト教Q&A 77』、『愛の祭典』、『きょうは何の日?』、『福音と笑い これぞ福笑い』など。
このコラムで紹介する『それゆけ伝道』(教文館、02年)は、同氏が宣教論と伝道実践の間にある溝を埋めたいとの思いで発表した著書。「元気がない」と言われているキリスト教会の活性化を期して、「元気の出る」100のエッセイを書き上げた。