日本の社会は、いまだかつてなかったほどの宗教離れが進んでいるといわれます。限界あるいは過疎地域の寺社仏閣の閉鎖や無人化が進んでいます。キリスト教界でも地方教会では1つの教会で牧師を支えるのが困難になり、1人の牧師が3つの教会を担当するのは珍しくなくなっています。しかし、牧師が巡回して来るまで教会を守っていくのに、一部の信徒に負担がかかることも少なくありません。また、牧師も長時間、長距離の運転のために疲労してしまいます。
宗教離れが進んで、宗教の需要が少なくなったかと思うのですが、現実は逆で、医療界では宗教家に対する期待が高まっています。病院と臨床宗教師の関わりについて公共放送で取り上げるほど関心は高まっています。また、宗教の疑問についてお坊さんや牧師が答える番組の視聴率は高いといわれます。
病院ではドクターやナースは病気の治療をし、肉体の痛みを緩和することは専門ですが、患者が抱える心の悩み、死の恐怖に対処する方法も分からないし、人手も足りないので、宗教家の助けを借りたいという希望があるといわれます。
しかし、宗教家が一方的に自分の宗教を患者に押し付けてしまっては、患者の不安や恐怖が助長されかねません。病院側が期待しているのは、カウンセリングの心得があって、患者の声を十分に聴ける宗教家であり、自分の宗教だけではなく、他の宗教にも精通している方がいいと言われています。
現在の日本の医療界では「スピリチュアル・ペイン(魂の痛み)」と呼ばれる分野が空白だといわれます。医学が進歩し、余命がはっきりと分かるようになれば、「自分の人生の意義」とか「死に対する恐れ」「死後の世界」のことをますます知りたくなるようです。その時に必要なのが「臨床宗教師」です。
臨床宗教師の対応により、患者が安らかに息を引き取っていく様子を見ている家族は、あらためて宗教に感謝するそうです。
宗教家に期待しているのは医学界だけではありません。非常に優秀な学生が宗教的空白を心に抱えていて、異端宗教(カルト)にはまり、テロリストに洗脳されてしまうこともあります。今や、公立大学でも何とか「宗教」を取り入れることはできないか模索しているところもあります。
また、大学だけではなく、中学校、高校でもいじめの被害が深刻になり、スクールカウンセラーが懸命に対応していますが、限界を迎えていて、宗教家の出番が論議されています。宗教家も対応できるように十分な備えをする時が来ています。
団塊の世代が終活を考える時期に来ています。今まで無宗教で来たのに、葬式だけ宗教を取り入れるのはおかしいということで、無宗教の葬儀とか音楽葬などが増えているといわれます。しかし、残された遺族には心の空白が残り、拠り所がほしいといわれます。
第2次世界大戦後、日本の社会で核家族化が進み、個人主義が徹底しました。その結果、葬儀に誰も出席しないという寂しい例が少なくないといわれます。見送る人がほとんどいない葬儀に、教会のボランティアが出席し、賛美歌を歌ったら、慰めになるのではないでしょうか。
日本の結婚式場が、「その会館で挙式したカップルには、海外の教会での挙式をプレゼントします」というキャンペーンを行っていた時期がありました。2度挙式することになるわけですが、海外に行けるということで申し込む方々が多かったように思います。
これはオーストラリアの信者さんに聞いた話ですが、「日本からカップルがやってきて2人だけで挙式しているみたいだ。これではあまりにも寂しいということでボランティアの方々が集まり、日本人カップルの挙式に自主的に参加し、賛美歌を歌い、拍手を送った」そうです。後に日本のカップルから「自主的に参加し、賛美歌を歌ってくださったので、とてもうれしかった」と聞いたことがあります。
半世紀前の伝道集会では、トラックの荷台にスピーカーを積んで町を練り歩き、集会所に人々を集めていました。このようなやり方では参加者を集めるのは難しいかもしれません。また、そこに教会堂を建てれば、自然と人が集まってくる時代ではないと思います。社会構造の変化に合わせて、社会のニーズに答える宣教の在り方が問われていると思います。
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」(Ⅱテモテ4:2)
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